年間第20主日

イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」(マタイ15・28)

「カナンの女」、ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』所収
「カナンの女」、ランブール兄弟『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』所収

 今日の箇所は一見すると、イエスと弟子たちが休みに行く話に思える。5000人を食べさせ、ファリサイ派といろいろ議論したあとのこと。けれども、よく見ると、イエスは状況から距離を置こうとしている。幼子のころエジプトに逃げた時のように、パレスチナの外に出る二回目の逃避のようだ。パンを増やす奇跡は失敗に終わった。人々はそれで確かにイエスのところに集まったが、それは違った目的のため、パンをもらうため。イエスの道は誤解されたのだ。そのあと、ファリサイ派と大きな議論になった(15章)。食事の前に手を洗うことなどで、ファリサイ派にとっては大切な掟で、自分たちを異邦人と区別する点だった。

 その後、イエスは「ティルスとシドンの地方に行かれた」。ティルスとシドンはレバノンの南に位置し、パレスチナの外になる。海の近くで、自然の豊かな場所だ。しかし、昔から、イスラエルの敵であるカナンの人たちの地方であり、異邦人の世界だ。イエスの休息はすぐに終わる。一人の女性がやってきて、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。彼女は異邦人で、どこかでイエスのことを聞いたのだろう。「ダビデの子」とはユダヤ人たちがメシアについて使う言葉で、彼らは敵を倒しイスラエルを自由にするメシアを望んでいたが、イエスは違った意味のメシアでありたかった。この女性の娘は悪魔に取り憑かれている。どんな病気かは詳しく書かれていないが、とにかく体だけでなく、霊的な問題がある。イエスがこのような人たちに出会うのはこれが最初ではないから、他の場合と同じく簡単に触れることもできたエピソードだ。例えば、一日中働いたあとにまた病気の人が来たとき、イエスはその人を癒やしたと別の箇所にある。却ってこのエピソードは、何か違った物語になる。このエピソードについて、教会は2000年のあいだに考えられないほどたくさんの解釈をしている。それは、このエピソードに引っかかる箇所があるから。

 ここで思い出される大切な点はこの箇所も例によって神学的物語であること。だから、マタイの記述の細部に注意すべきだ。たとえば、イエスは最初何も答えない。娘が病気でイエスに助けを求めている人に答えず無関心なのは冷酷に思える。イエスはこの女性を軽蔑する表現も使う(「犬」)。弟子たちもこの女性に距離を置こうとする。ある人は、弟子たちはイエスより憐れみを抱いていると解釈するが、そうではなく、迷惑だから遠ざけるようにイエスに頼むのだ。それは、ユダヤ人がめったに入らない異邦人の世界にイエスが入ったから。イエスも弟子たちも、ユダヤ人の考え方をする。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。この言葉は厳しく、失礼で、冷酷に聞こえる。イエスは最後は、この女性の希望をかなえて娘を癒やし、この女性を褒めたが、最初はなぜこのような態度をとったのか?

 ここに注意すべき点がある。マタイがこの箇所を書いたのは85年頃。イエスを信じたユダヤ人共同体にとって大きな危機の時期だった。彼らはユダヤ教からキリスト者になった人たちで、イエスの生前通りユダヤ教のしきたりに従い、安息日を守ったりしながら、イエスに倣って生きていた。しかし、70年に神殿が破壊されたあと、ファリサイ派は、イスラエルの共同体を立て直すためにモーセの掟を守ることに努め、そのためにキリスト者を会堂から追い出すような迫害も行っていた。だから、危機の時期で、本当の掟は何か、誰が正しいか、ファリサイ派かキリスト者かーーそういう問題があった時期なのだ。そして、マタイがその福音書を書いたのは、イエスが新しいモーセでありキリスト教(第二契約)が旧約聖書(第一契約)の完成であるという信仰を確認するとともに、迫害されるキリスト者を慰めるためだった。その同じ目的のため、このエピソードを利用してマタイは、イエス自身が異邦人に道を開いたと言いたいのだ。「イスラエルの家の失われた羊のところ…」について聖ヒエロニムスが言うのは、異邦人のところに送られていないという意味ではなく、まずイスラエルのところに送られ、そしてイスラエルから見捨てられたあとに、異邦人に移ったという意味だと。今日の第二朗読はその経緯を示唆している(ヨハネ1・11も参照)。だから、イエスがその女性に会ったのは、ちょうどその移行の時期にあたる。イエスは神であるとともに人間であるから、祈りのうちに自分の道を少しずつ整えていくと言える。マタイはこのエピソードを使って、マタイ当時のユダヤ人キリスト者が思っていたことをイエスの口に載せて、アイデンティティの問題をイエスも感じていたということを示しながら、神の愛がすべての人に向けられていることを言おうとする。だから、マタイがイエスについて、ファリサイ派から受け入れられず、民からも理解されないと言うのは、マタイ当時の信者も同じこと。民は利益ばかり考えて、イエスの目的を理解しなかったが、イエスが言いたかったのは、神が無償で救う憐れみと恵みの神であること。

 異邦人も、救いは恵みということを理解するのに苦労する。今日の箇所の女性に対するイエスの態度や言葉も、彼女の信仰がたんなる「神頼み」から清められるためのものだった。初代キリスト教もイエスが復活したあとでも、それを理解するのに苦労し、聖霊の力とパウロの忍耐によって、ようやくそれがわかってきたのだ。イエスがイスラエルだけではなく、すべての人の救い主であることもそうだ。イエス自身ユダヤ人として、そのような移行を経験した。神はその言葉を取り消してユダヤ人を見捨てたわけではないとはパウロも感じていた(第二朗読)が、それはこんにちも大きな問題として残る。しかし、イエスが宣言する新しい世界では、救いの食卓から落ちたパンくずもすべての人を助ける力がある。いただいたパンを異邦人と分かち合うこと、すべての人と兄弟であることをイエスは弟子たちに教えるのだ。

 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」。イエスはその女性の言葉に感動する。彼女は謙遜に、信仰と愛の完全な形を示したから。イエスの言葉を侮辱と感じず、他の人と比較も競争もせず、ただ救いがイエスから来ることを心の底から表明する。イエスが沈黙して彼女の願いをすぐに叶えなかったのは彼女の信仰が成長するために役に立ったのだ。イエスの救いはエリートのためではなく、神の愛に心を委ねる人のためのもの。ここで連想されるのは出血症の女性だ。彼女はイエスの服の房に触れて癒やされた。救われるためには小さな恵みでも十分なのだ。

 最後に、このエピソードは2000年後の私たちに何を教えているか。こんにちのキリスト教ではユダヤ人と異邦人の比率は逆転しているから、私たちは問題をあまり意識していない。しかし、よく見ると、私たちも当時のキリスト者のように、エリートのグループの中に閉じこもる危険がある。教皇フランシスコは、まだ大枢機卿だった2013年に説教でそのテーマに触れ、その後も「出向いていく教会」について語る。「出向いていく教会」とは宣教する教会のこと。フランシスコによると、イエスが私たちの心の扉を叩くのは、彼が中に入るためではなく、私たちが外に出るためだ。本当のキリスト者は、教会の中に避難して閉じこもって生きる人ではなく、外に出かけて宣教し神の言葉を分かち合う人なのだ。全世界に向かうことは教会の根本になる。教皇フランシスコの『福音の喜び』全体がこのテーマについて書かれているから、教会の中で大切にして、勉強の機会をもつことが望まれる。


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