年間第21主日

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16・19)

グイド・レーニ「キリスト、聖ペトロに鍵を授ける」、1625年、ルーブル美術館所蔵
グイド・レーニ「キリスト、聖ペトロに鍵を授ける」、1625年、ルーブル美術館所蔵

 今日の箇所、またマルコとルカの並行箇所は、カトリックでもプロテスタントでも正教会でも、多くの人が論じている。教会の中でのペトロの役割について書かれているからだ。聖書学の立場や神学の立場、歴史学の立場などからの考えられないほど多くの研究のきっかけになり、いろいろな問題について論じられてきた。第一に、この箇所はイエスの実際の言葉を伝えているのか、それとも初代教会の編集が入っているのか。第二に、聖書解釈をめぐってもさまざまな意見がある。特に3つのたとえについて(石(岩)、鍵、「つなぐ」と「解く」)。第三に神学のレベルで論じられてきた。教会の土台は誰か、ペトロかイエスかなど。これはカトリック教会のアイデンティティやエキュメニズムと関係する問題だ。つまり、ペトロの後継者とされる教皇の役割はどういう役割なのか。ヨハネ・パウロ2世も、教皇の新しい役割を探すための助けを願った。教皇フランシスコもそうだ。しかし、以上のようなさまざまな問題には立ち入らずに、祈りのために、この箇所を簡単に見てみる。

 「フィリポ・カイサリア地方に行ったとき」。イエスはよく歩く。あちこち遠いところまで出かける。直前は別の場所にいて、今はパレスチナの最北、フィリポ・カエサリアだ。フィリポとはヘロデ大王の息子。そこではまさに町の建設途中だった。ヨルダン川の3つある源泉の一つがあり、風景が独特だ。異邦人が多く、神々、特にギリシアの神パーンの神殿があった。少し険しい山手は、死者の世界、陰府の国の入り口と異邦人は考えていた。イエスは、きっとファリサイ派やサドカイ派から離れるために、弟子たちを遠いその場所へ連れて行ったのだろう。

 「弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」。弟子たちをあちこちに派遣したイエス。弟子たちの宣教にどんな反応があったか、知りたかったのだろう。  弟子たちの答えはおおむねイエスを失望させるものだった。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。エリヤは、メシアが来る時再来すると考えられていた昔の預言者。エレミヤも迫害された預言者だ。いずれにしても、過去の人物だ。つまり、当時の人たちはイエスの教えを聞いても、新しさを感じず、昔の人が戻ってきたと考えたのだ。

 よく考えると、私たちの時代もそうだ。イエスについての知識が多い西洋でも、そうでない東洋でも、たとえ教会に反発するにしても、イエスは重要な人物の一人とされ、聖書から離れてもいろいろなイエス像が昔からある。たとえばイエスは本当の社会主義者、または自由を愛するヒッピーだったと言う人もいる。フェミニストからは女性を擁護する人物として、環境保護論者からは自然を大切にする人物として考えられ、また貧しい人のために正義を行う人物やヒーラーと理解された。アジアでもグルーと考えられ、座禅を組むイエス像もあちこちにある。西洋ではイエスについてさまざまな映画も製作されてきた。確かにイエスにはそういった面もあっただろうが、知っている過去の人物と理解し、イデオロギーの代表者として利用しているにすぎない。イエスは誰かという問題は、私たちキリスト者をも考えさせる。私たちはイエスについてどういうイメージをもっているか。

 「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。3年間私といっしょに歩き回り、私の言葉を聞き私の行いを見たあなたたちはどう思うのか。これは重い質問だ。私たちも、私たちの共同体も問われている―あなたにとってイエスは誰か、あなたのイエス像は真実のイエス像かと。

 そこでペトロが答える。ただし弟子たちを代表してではない。「あなたはメシア、生ける神の子」。「生ける神の子」とは命を与える神の子という意味。それはとても見事な表現で、イエス自身よい意味で驚いたほどだ。もっとも、ペトロの言ったメシアとは、イエスの考えるメシアではなく、権力をもち他の国を支配するメシアだ。先週の箇所の女性の言った「ダビデの子」もそうだった。イエスは、実際にはそういうメシアではありたくなかったが、それでもその答えを受け入れて、ペトロを祝福する。「あなたは幸いだ」、あなたは神を見る目がある、心が清いと。その面ではイエスは肯定的な反応を示した。しかし、イエスはポジティブなだけではない。「シモン・バルヨナ」。バルヨナとはヨナの子。これは珍しい言葉で、あだ名だ。ヨナの子とはヨナと同じという意味。ヨナは預言者の中でただ一人、神から言われたことと反対のことをする。東に行くように命じられて西に行く。そしてなかなか回心しない。特に罪人に対する神の憐れみを理解できず、罪人に対して神より厳しい。頑固で、神が人を滅ぼさないから、木の下で死にたいぐらいに思っている。自分が正しいと考え、町の人が王様から動物まで回心しても、罰を求める。自分の間違いを認めるくらいなら、罪人が死んでもかまわないと思うのがヨナだ。ペトロはそんなヨナと同じだとイエスは言いたいのだ。だから、イエスの答えには2つの部分がある。最初はペトロを褒め、次はペトロにを褒めているのだ(日本語訳では順番が逆になっている)。

 「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ペトロは権力や自分を中心にする危険があるとイエスは言いたいようだ。

 「あなたはペトロ」。ギリシア語にはペトロスとペトラという2つの言葉がある。ペトロスは小石を意味し、ペトラは女性形で岩を意味する。つまり、イエスが言うのは、あなたは小石だが、キリストが岩だと。「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3・1)。この点に基づいてプロテスタントはきっと、ペトロ(とその後継者)よりキリストが中心だと主張することだろう。イエス自身の言葉か初代教会の付け加えかという問題もこの点に関係する。簡単に言うと、初代教会には、教会の中心を巡って競争があった。イエスのその言葉は、ペトロが他の人より教会の中心だということを主張するために使われた。イエスが言うのは、神の国を作るためにあなたは必要な一部だが、もう一つの土台が大切だと。教会が立つ本当の岩、動かない岩はキリスト自身だと。イエスは新しい会堂を作るために来たのではない。イエスは今までと同じメシアではない。イエスの共同体は、死ではなく命を与える神の子の上に建てられる。

 イエスが彼の共同体を建築にたとえたのは、もしかしたらその町が建築途中だったから。だから、そのたとえを使う。「陰府」という言葉も、その町に死者の世界への入り口と思われた場所があったから、イエスがそこからその言葉をとってきたとも考えられる。

 「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」。「鍵」とは、かつぐほど大きな町の鍵のこと。イエスが言うのはペトロは神の国の責任者ということ。だから、ペトロはいつも天国の係とされ、臨終の扉とよく呼ばれる。しかし、マタイにとっては、神の国は後の世のことではなく、今のこと。だから、鍵を授けられて具体的に何をするか、考えるべきところがある。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。ここでイエスはペトロに言うが、同じマタイ福音書の18章では、その権限が弟子たちみなに与えられる。つまり、その権限は教会の中心であるペトロだけでなく、教会に与えられたのだ。これに関して議論があるが、今はそれには入らない。とにかく、この言葉は宣教への呼び出しだ。

 「イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」。これはマルコにもあるが、イエスがメシアであることを秘密にしなければいけないということではなく、イエスの秘密を弟子たちがまだ十分にわかっていないということ。権力で国を収めるメシアだと言ってはいけない、私はそういうメシアではないとイエスは言いたいのだ。イエスはメシアだが、彼らが期待していたようなメシアではない。洗礼者ヨハネが考えていたメシア、力をもって罪人を滅ぼすメシアではない。イエスがどのようなメシアであるかは十字架上ではじめて明らかになる。十字架につけられる時にイエスは父なる神をうつすのだ。イエスが神の子であるのはその意味だ。そしてダビデの子は神ではないが、十字架につけられたイエスは神だ。

 最終的に、ペトロもまだキリストに至る道を最後まで歩んでおらず、キリストを十分に理解していない。彼はまだ自分の弱さを意識していない。イエスへの憧れや信仰があったとしても、大切なことがまだわかっていない。まだ自分に自信をもち、利己主義的な立場でイエスといっしょに死ぬと言ったりする。彼はまだ十分に神の愛がわかっていない。人間が罪を犯したあと、その罪を赦したい神の心、神の憐れみをまだわかっていない。ペトロの信仰はまだ自己意識の立場だ。彼が本当の教会の中心、イエスの羊と子羊を牧する者になるのは、自分の罪に涙を流しイエスに赦されその喜びとありがたさを知る時。その時はじめて、ペトロは教会の小石になる。マタイがこの話を大切にしていたのは、彼がユダヤ人の世界で話していたからだが、ヨハネ福音書によると、ペトロは復活したイエスから、私を愛しているかと3回質問される。神の憐れみを身をもって経験したペトロは、その時はじめて教会を牧する資格をもらう。神の無償の愛を経験した人、赦しをいただいた人だけが牧する資格がある。

  今日の日曜日のきっかけに私たちはまず、パパ様や教会の中で権力を持っている人のために、また教会の一致のために祈る。教会の中でのペトロの役割は、彼自身の経験から切り離すことができない。キリストがペトロを兄弟たちの信仰を強めるために選んだのは復活のあとだ。霊的指導者としてのペトロの歴史的な役割は、彼の人間としての個人的な経験と深い関係がある。もし神秘主義者ヨハネがパパ様になっていたらどうなっていたか私たちは知らないが、ヨハネの個人的な経験はきっとその役割と一つになっていただろう。または、もし異邦人への宣教者パウロがパパ様になっていたとしても同じように、彼の個人的な経験による影響があったはず。それぞれ自分の信仰の経験からその役割を果たしていただろう。だから教皇の役割は、個人の経験と無関係な、抽象的な役割ではない。イエスに対して感情的な愛情を示すと同時に、イエスを裏切るペトロ。彼がパパ様となって、信じる人の家である教会は、弱い人の家になった。ペトロのその経験があったから。信仰と疑いの間で迷う人たちの家、キリストへの憧れや帰依と不信とのあいだに悩む人の家になった。どのような弱さがあっても、教会はペトロのようにイエスを仰ぎ見て信じている。


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