年間第23主日

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。(マタイ18・15)

ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」、1773年、ウィーン美術史美術館
ポンペオ・バトーニ「放蕩息子の帰還」、1773年、ウィーン美術史美術館

 マタイによる福音書は「教会の福音書」と呼ばれるが、教会と訳されるのはギリシア語のエクレジア。この言葉はマタイ福音書では16章と18章で使われる。エクレジアとは「呼び集められた人々」という意味。だから、教会とは神によって呼び集められた家族を意味する。それは旧約時代に神の言葉によって呼び集められた民の完成だ。ということは、マタイの福音書にあるエピソードはただイエスを信じる一人ひとりの物語ではなく、その裏にちゃんとした共同体があるのだ。イエスを信じた人たちは、ただ一時的に集まったのではなく、少しずつ共同体を作り上げた。その共同体にはよいところもあれば弱いところもある。特に18章からは共同体の有様が見て取れる。当時すでにできていた共同体は小さな形であるとしても、こんにちの私たちの共同体がもつ問題を抱えていた。だから、今日のような箇所は、私たちにとって、私たち自身を映し見る鏡であり、成長するきっかけにもなる。
 18章全体が共同体にかかわるが、今日読まれる15節から20節まではイエスのいくつかの言葉が集められ、罪の赦しが問題にされている。それは私たちの共同体の問題でもある。罪について互いに兄弟として忠告し合うこと(兄弟的矯正corretio fraterna)については、教会の歴史の中で、例えば修道生活の中でさまざまな反省や研究がなされてきた。罪人であるというのがイエスを信じた人たちの状態だ。イエスに憧れ彼の後に歩こうとしている人たちが同時に罪を犯すのだ。教会の中には罪が存在する。どのような態度でその問題に向かうべきか。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」。よく誤解されるが、ここで言われる罪とは悪一般ではなく、教会の中で兄弟から受ける罪だ。そして、注意すべきだが、私たちはすぐに、教会共同体の中にいい人と悪い人を区別して、悪い人にどういう態度をとるかが問題だと考えてしまう。けれども、この区別は教会共同体だけでなく、私たち一人ひとりに言えること。一人ひとりがみな、場合によって、罪人と、罪人に傷つけられる人との両方の役割を互いにするから。
 兄弟の罪に対するイエスの指針は次のとおりだ。「行きなさい」ーこれは罪人から傷を受けた人に対する言葉だ。「忠告」はギリシア語ではいろいろな意味に解釈できる。相手の罪を告発することとも解釈できるが、イエスが言うのはそうではない。それは「二人だけのところで」という脈絡からわかる。「忠告」とは、罪の被害者として罪人に対して厳しい態度をとり、罪人の回心を求めるということではなく、その問題を超えて一致を取り戻すために話をするということ。イエスは罪人の罰を望まないから。「二人だけのあいだで」、つまり、イニシアチブをとるのは罪人に傷つけられた人だ。南米訪問中の教皇フランシスコは昨日、受けた被害に対する復讐の誘惑を乗り越え平和を築くためのイニシアチブをとる人が必要だと話した。希望が存在するためには一人でも十分で、私たちの誰もがその一人になれると(詳しくはこちら)。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。ここで「兄弟」と言われている。つまり、イエスが言うのは、自分を傷つけた人が失ってはいけない宝物であるということ。放蕩息子のたとえ話では、父なる神にとって罪は神への侮辱ではなく、愛する子どもを失うことだが、それと同じことなのだ。「言うことを聞き入れたら」。だから、相手に対する話し方、ふるまい方、心の姿勢が非常に大切だ。イエスが言う忠告は簡単なことではない。正義の側に立って、相手が正しくないという判断を下すことではなく、相手を宝物と考えた上でとる愛の行動であり、特別な心の姿勢と技術が要求されることであり、実現が難しいことだ。たとえば、祈るために神殿に上った二人の男のエピソードを思い出すと、ファリサイ派の態度が「忠告」ではない。自分が相手より正しいと考えて、そのプライドから相手に対して態度をとることではない。このことは非常に重要だ。世間ではよく、相手の上に立つために相手に目を向ける。たとえば、相手が災いを受ける時、いろいろな人が慰めてくれるが、相手にいいことが起こる時、いっしょに喜ぶ人は少ない。要するに、上の立場から相手を叱ることは、相手を宝物と考えて話をするのとぜんぜん違うことだ。

 だから、イエスが言う「忠告」は、罪人をいじめることではなく、「忠告」する人にしかるべき心の姿勢が求められる。もっと具体的に言うなら、自分も罪人で罪を赦されたと自覚している人こそ、兄弟を助けるためにふさわしい心の姿勢をもっている。これはヘブライ人の手紙に強く出てくる。イエスは謙遜と注意と繊細さを要求する。怒りを超えた強い人だけ、相手を赦し相手に「忠告」する力がある。

 「二人または三人の証人」。これは、旧約聖書を思い出させる表現だが、憐れみと一致のカリスマのある人のことだ。問題を解決するのは知識と恵みの人なのだ。イエスが教える赦しは一時的な感情ではなく、神の恵みによって育てていくべき技術だ。こんにちの教会は、戦争を終結させるだけではなく平和を維持することに敏感だ。イエスにとってモラルとは罪人に投げつける石ではなく、罪人が回心しやりなおすための助けなのだ。それと正反対なのは偽証や中傷やゴシップ。相手について嘘を言ったり、本当のことだとしても相手の悪を言いふらしたり。必要でない限り相手の悪を言いふらすことは罪だ。相手が立ち直るための妨げになるから。聖人ぶって、上から人に注意するなら、結局相手を傷つけることになる。逆に必要なのは、子どもを叱るときの母親のような愛情だ。そうでないと、怒りにかられて相手に復讐し相手を苦しめることになってしまう。教皇フランシスコは聖霊の賜物についての最近の連続講話で、平和を築くための賜物の大切さに触れている。罪人に石を投げるのではなく、兄弟のように手を差し伸べることが大切だ。
「聞き入れなければ、教会に申し出なさい」。教会とはエクレジアであり、キリストを中心とする共同体、つまり赦され罪から救われた共同体のこと。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に」。これは一般に罪人の破門と理解される。その人がもう存在していないかのように扱いなさいという意味だと。しかし、注意しなければならないが、そうではない。これは異邦人と徴税人に対してイエスがとった態度をとらなければならないということ。つまり、もし兄弟愛を取り戻すことができないなら、イエスがしたように一方的に愛しなさいということ。罪を犯した人がたとえ回心しなくても、教会は見捨てるのではなく、祈りでその人の罪を負うべきということ。ボンヘッファーにも共同体について有名なページがある。報われなくても、愛し続けるべきだと。病気の子どもに対する母親のように、一方通行の愛で愛し続けるべきだ。それこそイエスが自ら、徴税人や罪人に対して最後まで、十字架死に至るまで示した愛だ。キリスト者の共同体では、人を区別する愛ではなく、善人にも悪人にも雨を降らせる父なる神の愛が必要だ。人を愛して愛されるのはすばらしいことだが、それよりもイエスが教えた愛がある。愛し返されなくても愛するのは命を捧げること。

 「つなぐ」「解く」、これは赦しと関係することで、法律的な対応ではなく、内面的な心の態度のことだ。イエスは自分の教えをまとめて主の祈りを教えたときにもこれに触れた。私たちは人を赦したように神から赦される。その結果、赦さない人は私たちの中に神の愛が入るのを邪魔してしまう。
 「二人が心を一つにして」。ギリシア語ではシンフォニー。これはいっしょに響くという意味で、教会共同体を非常に美しいイメージで表現する言葉だ。信者は、同じ型で押された人間ではなく、オーケストラの楽器がさまざまな音を出すように、さまざまな才能や性格をもっている。その結果、教会が大きくなるほど、それを調和させるのは当然難しくなる。そのためには、まさにオーケストラのように、美(イエス)への憧れと忍耐が必要だ。人より大きな声を出したい人、自分の声と相手の声が混ざることを許せない人は合唱団に合わない。人と混ざり合うことができない人、赦しの心を持たない人、愛さない人は、ちょうど合唱団の中で外れた音を出す人だ。

 「二人が心を一つにして求めるなら」、先の二人の証人を示唆している。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」。ユダヤの伝統にはこれと似た表現があった。二人または三人が聖書を勉強するために集まれば、神の栄光に覆われると言われたが、マタイはその表現をアレンジしたのだ。つまり、これは、イエスが平和の基準であり、シンフォニーの楽譜であるということ。同じことは、パウロの手紙やヘブライ人への手紙にもある。キリスト者にとっては、父なる神は聖書のことばだけではなく、新しい共同体、教会の中のキリスト自身によって現存する。マタイはキリストを、謙遜で平和を愛する者として、生き方の模範として私たちに示す。

 こんにち、世界のさまざまな国でたくさんのキリスト者が平和を築くために命がけで働いている。南米訪問中の教皇フランシスコもそうだ。今日のミサは、そのパパ様のため、また彼のように働いている人のために祈る、よいきっかけだ。私たちの共同体にも平和を築く人がいる。そのような人のためにも祈りたい。


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