年間第28主日

家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。(マタイ22・10)

聖エジディオ共同体によってホームレスの人たちに提供されたクリスマス・ランチ(ローマにあるサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で)
聖エジディオ共同体によってホームレスの人たちに提供されたクリスマス・ランチ(ローマにあるサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂で)

 先々週と先週に続き、今日もイエスのたとえ話。今日のたとえ話を理解するためには、特に3つのアドヴァイスが役に立つ。第一に、時代や表現の違いから来る物語の細部にこだわらずに、基本的なポイントに注目することが大切だ。特にイエスが何を言いたいかを理解しようとすべきだ。第二に、先々週、先週もそうだったが、イエスの厳しい言葉が出て来る。私たち現代人はそのような表現に慣れていない。現代では、お世辞など虚しい言葉がいっぱいで、子どもを叱ることも避ける。それでは、自分の間違いや欠点になかなか気づくことができない。これは現代人の霊的な弱さだ。だから、イエスの厳しい言葉に引っかかっても、逃げないで、イエスが医者として私たちの病気を癒やすと考えた方がいい。第三に、今日の箇所には、非論理的なところがあって、解釈を難しくしている。それは、マタイがこの箇所を編集する時に、何かの理由があって、二つの違ったたとえ話を一つにしたからと考えられる。
 このたとえ話は、ルカにも似た話がある(14・16−24)。ルカはマタイを参照したようだ。
 そして、先週指摘したように、マタイ22章はイエスの生涯の最後の時期。祭司長たち、ファリサイ派の人たち、律法学者たちとの対立がどんどん大きくなり、イエスはその考え方のために捕えられる。そして最後に十字架上で殺される。
 また、マタイがこの箇所を編集したのはキリスト者にとって難しい時期だった。パウロなどの宣教によってユダヤ人以外の人たちが教会に入ったために、どのように関わり違いをどう受け入れるかという問題があった。またユダヤ人による迫害も始まっていた。このような難しい時期に、マタイはイエスの言葉を信者たちに伝えているのだ。
 今日のたとえ話のテーマは婚宴。披露宴という言葉を使ってもいいが、世俗的な私たちの時代の披露宴とは違いがある。マタイもルカも、第一朗読に出てくるような荘厳な神の婚宴を考えている。ユダヤ人にとって、山の上で食事をともにする婚宴とは神がイスラエルのために行ったさまざまなわざを象徴する。神はいろいろなことをしてイスラエルを幸せにしようとした。先週のぶどう園もそうだった。今日のたとえ話では、イスラエルが幸せに暮らすために招待される。先週のぶどう園の労働者が収穫を渡さなかったのと同じように、今日のたとえ話でも、イスラエルは招待に応じず、拒否した。イスラエルは神から呼ばれ土地を与えられたのに、神から離れた。神の作品であったはずなのに、悪の道を歩んだのだ。大勢入る部屋に食べ物がいっぱい並べられているのに、誰もいない。たとえるなら、母親が子どものために食事を用意したのに、子どもは遊びに行って家に戻らない、あるいは妻が夫の誕生日にごちそうを用意したのに、夫はバーに行ってママさんと祝う状態と言えるだろうか。神は失望し、悲しむ。イスラエルが拒否した理由をマタイは二つ挙げる。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」。神は天と地を創造したのに、自分の畑に出かけ、全世界が神のものであるのに、自分の商売に出かける。ルカも結婚や用事を挙げている。神の招待に応えないのは、ユダヤ人だけではなく、私たちでもありうる。今日の箇所を読む時、私たちは、何のために生きるか、何を選択し何を大切にして生きるかを問われている。細かいことではなく、生活全体が向かっている方向、価値観を問われている。家庭での子どもの教育も、社会生活もすべてそれにかかっているのだ。
 「王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」。マタイは預言者たちや洗礼者ヨハネに対する迫害を考えているだろう。
 「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」。この箇所は注意しなければならない。神が報復したのではない。マタイの当時、エルサレムの都はすでにローマ人によって破壊されていた。それは、神の招きを拒否した結果だと言われているのだ。神が復讐したり罰を与えたりしないことは、福音書の他の箇所で書かれている、罪人や悪人に対するイエスの態度からよくわかるところだ。だから、このたとえ話が言おうとするのは、神との間違った関係から、人間の悪い状態が結果するということ。たとえば放蕩息子が放蕩の末、着る服にも食べ物にも困るのがそれだ。神から離れた人間には生きる土台がなくなる。一つ一つの行為が悪いというのではなく、構造的悪―生活全体、社会全体に悪のDNAが入ってしまうことが問題だ。世界の歴史を見ても、戦争のために何百人もの人が殺されたり、不正義が行われたり、自然が破壊されたりする。昔も今もそうだ。ハンナ・アーレントは、ユダヤ人迫害の裁判に参加した際にアイヒマンを目撃し、大きな犯罪を犯したのはつまらない人間だったと言った。人間はつまらないことにこだわって、自分に対し、家族に対し、世界に対し悪を行うのだ。

 しかし、神は人間の弱さにあきらめず、家来たちに言う。「町の大通りに出て」。それは、人の集まるところに行くという意味ではなく、道が続く限り、歩けるところまで、一番遠いところまで、歩けるところまで行くという意味。つまり、聖なる国イスラエルの外に、異邦人のいるところだ。それは、私たち一人一人が罪に倒れているところでもある。
 「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」。「家来たち」はギリシア語ではドゥーロスだが、最後にディアコノスという言葉が出てくる。これは助祭を意味する教会用語だ。マタイは教会のことを考えているのだ。「善人も悪人も」はギリシア語ではポネロイ・テ・カイ・アガトスで「悪人をはじめ善人も」と順番が逆になっている。これは親鸞の「悪人なおもて」という有名な言葉を連想させる。法然も、殺されて死んだ父親から復讐しないように言われたという。神が復讐の神ではないことはずっと前にイエスが言っている。仏教にもその影響があったことも考えられなくはない。ルカはギリシア人のために説明して言う、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」。それは私たちのことだ。私たちの教会は町内会ではなく、何か共通の目的や趣味があるのでもなく、好き嫌いで集まったのでもエリートでもない。私たちはそれぞれ弱さをかかえた罪人としてキリストの婚宴に呼ばれ迎えられたのだ。第一朗読では、その婚宴のときは死も涙もないと言われる。神は私たちを幸せにしたいのだ。私たちは、死と苦しみから私たちを解放するために来られた神の子イエスの婚宴に、神の命によって生きるために呼ばれたのだ。これが今日のたとえ話のポイントだ。そこに私たちの喜びの源泉がある。それがわかれば、ミサがどういうことか、ミサのためにどういう準備をし、どういう態度と姿勢で与るべきかがわかる。
 「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」。道端で呼ばれた人たちに礼服が求められるとは奇妙だ。しかし、これは、先週のたとえ話がユダヤ教の間違いをしないようにキリスト者に注意しているのと同じことだ。つまり、ここでマタイは当時の信者たちに対して、神の呼びかけを空しくする危険があると注意をしているのだ。
 「礼服」についてはいろいろな説があるが、当時の結婚式では入り口で客にマントを渡す習慣があったとも言われる。聖書では白い服は神の服を意味する。パウロもキリストを着ると言い、洗礼の時にも白い衣を受ける。それは内面的な変化を意味する。つまり、婚宴に参加するには内面的な変化、回心が必要なのだ。キリスト者になってミサや聖体に与るのは、人間的なことではなく、新しい価値観をもつことだ。たとえば私たちは子どもが生まれると教会につれていき洗礼を受けさせるが、それで十分ではない。キリスト教的な教育を与えなければならない。大人の場合も洗礼を受けて一度に変わるのではなく、祈り方とか人に対する態度とか、新しい生き方の訓練が必要だ。水の洗礼のあとに、生活に洗礼すべきだ。礼服を着ていない人のように、名前だけキリスト者で心は神から離れている人もいる。教会の組織にも世間的なメンタリティが入る可能性があるから、注意しなければいけない。
 「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」。「友よ」とは福音書には3回出てくる。ユダへの言葉を含め、3回とも注意すべきニュアンスがある。
 「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ」。これも罰ではない。マタイが言いたいのは、新しい人間になってない人たちは、自由も喜びもない生活を送るということ。だから、注意すべきということだ。
 イエスは受難に向かっている。今日のたとえ話は、そのイエスが私たちに残した大切なたとえ話だ。


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