王であるキリスト

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25・31)

「キリスト、羊と山羊を分ける」、6世紀、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(イタリア・ラヴェンナ)
「キリスト、羊と山羊を分ける」、6世紀、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(イタリア・ラヴェンナ)

 年間最後の主日に私たちは、王であるキリストを祝う。この祭日は比較的新しく100年ほど前に定められたが、王であるキリストというテーマは古く聖書に遡る(日本語では「王であるキリスト」の「王」と「神の国」の「国」とは別々の言葉だが、欧語では「王」と「国」は同じ語幹)。この祭日は何百万人もの信者の願いで定められ、行列などさまざまな形で祝われる。また、カトリックだけではなくプロテスタントや正教会も王であるキリストを祝う。

 第二バチカン公会議によって典礼が整理された際、この祭日のためにABCの3つの年に合わせて旧約新約聖書のさまざまな朗読箇所が選ばれ、その全部を読めば祭日の意味を深く知ることができる。しかし、ここでは、今日の福音朗読に限ることにする。 今日の福音朗読はマタイ第25章から。同じ章に、今日のたとえ話と少し似ている二つのたとえ話――10人のおとめのたとえ話とタラントンのたとえ話がすでにあった。今日のたとえ話はイエスの最後の教えだ。

 今日のたとえ話に出て来る王には、羊飼いのイメージとともに審判者のイメージがある。注意すべきは、審判者のイメージがすでに旧約聖書に出ていること。ただし、イエスは、ユダヤ人たちが抱いていた審判のイメージを覆す。つまり、神が審判する基準は律法ではない。そして不思議なことに、神に対する態度でもなく、隣人に対する態度なのだ。なぜマタイはその福音書の最後にそれを私たちに伝えるのか。イエスは私たちとともにいる神というのがマタイの大きなテーマだからだ。つまり、イエスの到来によって、神は遠いところではなく、この世界の私たちのそばに隠れているのだ。

 キリスト教の歴史を振り返ると、審判は神学にも霊性にも美術にもよく出てくる主題だ。審判については、罪人を地獄に落とす厳しい神を強調するというふうにしばしば間違った形で語られてきた。けれども、イエスが語る審判は、よく見ると、(いつ来るかは知らないとイエス自身が言う)世の終わりのことよりも、今のことだ。それは私たちの今の生活を案内するナビゲーターのようなものだ。今日のたとえ話が伝えるのは、過去についての未来の審判ではなく、現在の生活のガイドなのだ。

 「すべての国の民がその前に集められると」。日本語には「すべての国の民」と訳されているが、ギリシア語は「さまざまな民」を意味するラウス。ここでは、ユダヤ人以外の異邦人を意味する。マタイ福音書では、ユダヤ人についてはすでに審判が記されている。

 「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」。良いものと悪いものを分けることについてマタイはいろいろな形で語っている(良い木と悪い木、麦と毒麦、良い魚と悪い魚)。よく見ると、分ける基準は人間が犯した罪ではない。マタイ福音書が伝えるところでも、イエスは罪人に対して憐れみがあり、罪人を滅ぼさない。だから、良いものと悪いものを分ける基準は間違ったことをしたかしなかったかではなく、すべきことをしたかしなかった(怠り)かなのだ。そこに6つの例が出てくる(食べさせる、飲ませる、泊める、着せる、見舞う、牢に訪ねる)。それは当時、イスラエルだけではなくエジプトにもあった定式だ。たとえばエジプトの有名な死者の書は、死者の埋葬の際に遺体の横に置かれるものであり、神を喜ばせるためにその人が何をしたかが記されていた。今日のたとえ話でイエスは、そのような定式を使っているのだ。印象的なのは、祈りや神殿など宗教的な態度ではなく、隣人に対する態度が挙げられていること。特に、こんにちの刑務所とは異なり、当時の牢は食べ物の提供もなく、訪問者がもってくるだけだった。神が言うのは、このような人たちに対してしたことは自分に対してしたことだということ。だから、今日の福音は、私たちが生きている今の状態に対する神からの強いメッセージなのだ。

 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは」。「最も小さい者」とは誰か。6つの例からすると、困窮している人たち、社会から差別され見捨てられた人たちと考えられる。それと同時に、マタイはきっともう一つのことを考えている。マタイ福音書には「小さな者」が他にも出てくるが、それはイエスから派遣された弟子のことだ。彼らは狼の群れに送り込まれて、弱い立場にある。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(10・42)。イエスから遣わされた人たちはイエスの弟子として扱われ、イエス自身であるかのように、イエスといっしょに愛すべきなのだ。

 「主よ、いつわたしたちは…したでしょうか」。この人たちはいいことをしたけれども、神にそんなことをしたとは気づいていない。つまり、彼らは、神から愛されたり天国に行くといった目的のためではなく、純粋な同期からそうしたのだ。つまり、良いサマリア人のように、憐れな状態の隣人に憐れみを感じたからそうしたのだ。

 「王は左側にいる人たちにも言う」。音楽で同じモティーフが長調と短調で表現されるように、ここでも同じモティーフが反対の表現で繰り返されている。これは当時のラビたちの話法だったが、イエスは言うことをしっかりと受け止めてほしかったから、同じことを反対の表現でも繰り返したのだろう。

 「呪われた者ども」。この言葉にも注意すべきだ。イエスが宣言する神は呪う神、地獄に落とす神ではない。終末論文学に厳しいメッセージが含まれるのは、言われていることの重大さを強調するためだろう。「呪われた者」という言葉が意味するのは、この人たちが自分で自分の生活をだめにしてしまったということ。彼らは律法を守って罪を犯さず、神殿で宗教者として尊敬されることで救われると考えていたが、神から見放される。自分のことばかり考えて、隣人の必要に気づかなかったから。逆に、良い行いは、たとえどんなに小さなことでも、たとえ直接に神のためでなくても、神から注目され大切にされるのだ。私たちの生活にある小さないいことを神は大切な宝物として扱う。悪い人たちは「いつわたしたちは…しなかったでしょうか」と言い訳するが、いい人たちも驚く。それは救いの驚きだ。

 今日のたとえ話の羊と山羊には注意すべきだ。二元論的な考え方に慣れている現代の私たちは自然に、良い人と悪い人を分けてしまう。確かに、神の前で善と悪の違いはある。しかし、たとえ話の文面に引っ張られないように注意しなければならない。イエスが私たちに示す神は愛だから、羊だけを愛して山羊を愛さない神ではない。それに、羊飼いは山羊も飼う。ある聖書学者によると、羊飼いは羊も山羊も飼うが、違った世話をした。夜になると、毛が長い羊は寒い外に、毛が短い山羊は温かい小屋にいるようにしたのだ。イエスの神にはやさしさと厳しさがあるが、そのどちらも私たちを導く手だ。神はやさしい言葉で私たちを引き寄せ、厳しい言葉で私たちを指導する。聖書にも、神は愛する者を鍛えると書いてある(ヘブライ12・6)。私たちにはいい人と悪い人を分ける習慣があるが、神はそうではない。神の国では、麦と毒麦がいっしょに生えている。そして、良い人と悪い人は別々の人ではないのだ。羊と山羊の分け目は私たち一人ひとりにある。羊とは、罪人の中に神が見る聖人のイメージとも言える。

 審判のテーマが典礼に出て来る時には、狭く考えるのではなく、そのテーマで教会が何を教えたいかを見るべきだ。典礼年の最後に教会が教えるのは、終わりの日に行われる審判よりも、今を生きる私たちにとっての理想だ。私たちの今のありふれた日常生活には大切な可能性、神を愛するチャンスが隠されている。だから、私たちの周りの人々、近隣や職場、教会共同体を見直さなければならない。そして、大きなことだけではなく、小さなことに目を向けなければならない。イエスが言いたいこと、マタイ、そして教会が今日私たちに思い出させたいことはそれだ。待降節第一主日にも同じテーマが出てくる。よい待降節を送りたい。


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