「あなたは身ごもって」。旧約時代、十戒を刻んだ二枚の石板が入った箱は「契約の箱」と呼ばれたが、マリアは本当の契約の箱だ。契約の箱が3ヶ月エドムの家に留まった(サムエル記下6・17)ように、マリアはエリザベトの家に3ヶ月泊まった。あるいは、神殿と言える。マリアはお香の煙が立ち昇る神の神殿だ。あるいは、日本の神輿、京都の祇園祭の山鉾を思い浮かべてもいい。喜びいさんでそれをかつぐと、世の中に神が現存する。私たちもマリアと同じだ。教会は、合理的なことではなく、神を、イエスを運ぶこと。私たちも、ミサに来て、神の言葉を聞いて、聖体拝領して、神にあふれて教会を出て、この世に神を運ぶ。
「男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。ここではじめてイエスの名前が出て来る。そして、イエスの使命も教えられる。ルカが言うのは、イエスの誕生がすべての歴史の中心であるということ。
「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。…聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。
この箇所には初代キリスト教の信仰のエッセンスが含まれている。イエスが「人」であること、「偉大」であること、永遠の王であること、ダビデの後継者であること、天の「いと高き方」の子であること、「聖なる者」であること。そして、「聖霊」という言葉も出て来る。だから、私たちの信仰がすべてこの箇所に出ているのだ。
さて、天使から知らせを聞いたマリアはどうするか、何と答えるか。クレルヴォーの聖ベルナルドが言うのは、その時、宇宙に大きな沈黙があった(知恵の書18・14参照)。宇宙全体が息を止めて、マリアの返事を待っていた。すると、マリアは「はい」と答えたのだ。
「わたしは主のはしためです」と日本語に訳されているが、ギリシア原文では二つの重要な言葉が使われている。一つはイドゥで、「ここにいる」という意味。イドゥの反対語は日本語でも使われているアリバイで、アリバイは「他のところにいる」という意味だが、イドゥとは「ここにいる」という意味なのだ。ヘブライ語のヒンネーニに当たる言葉で、相手を安心させるニュアンスがある。つまり、マリアは、自分の祈りの力で神の母になったのではなく、神が呼んだときにそこにいて神に返事したから、神に心をゆだねたから、神の母になったのだ。
もう一つの言葉は、ドゥロスで、はしためを意味する。ただし、はしためと言っても、ただのお手伝いさんではなく、神からミッションをもらった人のこと。つまり、マリアはこの返事で、キリストを伝えるキリストの母であることを承諾して、「はい」と言って、それからずっと私たちにイエスを示す役割を受けたのだ。そして、マリアに続いて、マリアと同じように、マリアから力を得て、何億もの人たちが「はい」と答えた。私たちも洗礼の時に同じようにイエスに「はい」と答えたのだ。
正教会にはたいへん美しい言葉がある。ギリシア語でHodegetriaという言葉で、道を示す者という意味。それは、マリアがイエスを抱きイエスを示すイコンのこと。なぜか。イエスは道だから。待降節のマリアはイエスを示す。この人を見なさい、と。教会もマリアを見て、宣教師のミッションを受ける。だから、私たちカトリック信者はマリアを大切にするのだ。