聖家族

モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。(ルカ 2:22)

ジョヴァンニ・ベッリーニ「神殿でのイエスの奉献」、1459年頃、クエリーニ・スタンパリア美術館(ベネチア)所蔵
ジョヴァンニ・ベッリーニ「神殿でのイエスの奉献」、1459年頃、クエリーニ・スタンパリア美術館(ベネチア)所蔵

 待降節で心を準備したあと、降誕節に入った私たち。待降節全体が感動の時期だ。生まれたイエスを、感動しながら見る。感動しながら見るとは、冷たく見るのではなく、心にぬくもりを感じながら見ること。それは宗教的な体験だ。降誕節とは、聖書に導かれて、乳飲み子イエスを見ながら、私たちにとっての意義や影響を考えて祈る季節だ。

 生まれたイエスと、そばにいるマリアとヨセフ。今日は聖家族の祝日だ。この祝日が生まれたのは、教会の歴史からすると古いことではない。約300年前、カナダ・ケベック教区の初代司教が、フランスから移住した信徒のために、聖家族を模範とするグループを結成し、祈りやミサの祈願文を作って、聖家族を祝ったのが今日の祝日の始まりだ。それ以降、パパ様たちに認められ、さまざまな国に広がった。家族のテーマは教会にとって大切で、教皇フランシスコも全世界の司教たちを集めて家族についての意見を聞くシノドスを2回開いた。その総括として出されたのが使徒的勧告『愛のよろこび』で、8月に日本語訳も出た。

 私たちは、聖家族を見ながら、聖家族に倣って生きるべきだ。もちろん、聖家族と私たちの家族の違いはたくさんある。何よりも私たちの子どもは神ではないし、聖家族とは時代も事情も違う。けれども、私たちは聖家族を模範とすべきだ。第一に模範とすべき聖家族の特徴は神の言葉に導かれること。マリアは、待降節第4主日に黙想したように、神の言葉に「はい」と答えた。神の言葉によって導かれたマリア。ヨセフもそうだ。ヨセフは、神の言葉を聞く者だ。彼の行動――マリアとの結婚、エジプトへの逃避、ナザレへの帰還――はすべて神に導かれたこと。キリスト者である私たちも聖家族を見ながら、神の言葉を中心として生きるべきだ。生まれたイエスはその言葉だ。第二の特徴は、子どもは神の賜物だが、親の所有物ではなく、神からミッションを与えられていること。親であるとは、子どもが神から受けたミッションを果たすためにそばで子どもに力を与えること。子どもが神から与えられた自分の道を見つけるように育てるべきだ。これはよく見ると、私たちがもつ人間的な考え方と異なる。私たちはよく、子どもは親のものであり、親の意志に従わなければならないと考える。しかし神が言うのはそうではない。子どもは何よりも神のものだ。親は子どもを成長させ教育するというミッションを与えられたのだ。この第二の特徴は今日の福音書の箇所からわかる。

 今日の箇所を含む、ルカ福音書の最初の部分は、実は福音書で最後に書かれた部分だ。つまり、それは、起きた出来事の単純な記録ではない。ルカはイエスが誰であるかを知っていて、その信仰に基づいて、私たちにイエスについて話そうとしているのだ。ルカは、イエスがどのような生活を送り、どのような死に方をし、どう復活したか、そしてどのように教会の中に生きているかを知っており、そこから遡って最初のことについて書くのだ。だから、この点に注意して読まなければならない。言い換えれば、ルカは神学者として書いているのであり、ルカの言葉は深い意味のある神学の言葉なのだ。 

 ルカはイエスの誕生からイエスの洗礼のあいだにいろいろなことについて語る。その中に、今日の箇所であるイエスの奉献がある。奉献とは何か。ユダヤ人のしきたりによると、長男が生まれた40日後に母親と父親は神殿に上がり長男を神に捧げた。それは、生まれた赤ちゃんが自分たちが造ったものではなく、神から与えられたことを認めて、神に返すことだ。そして神からまた返してもらうためにいけにえを捧げた。金持ちは子羊一頭、貧しい人はルカが書くように「山鳩のつがいか、家鳩の雛二羽」を捧げる習慣があった。その式は母親の清めの式でもあった。
 奉献の時、マリアとヨセフは、生まれたイエスが神から与えられたことを知っていたけれども、まだユダヤ人としての信仰をもって、聖書に従って行った。実際のところ、イエスは神であるから、イエスを神に捧げるということではない。ルカはそのことを説明するために、その時に起こった不思議な出来事を描く。だから、今日の箇所は、旧約から新約に移る瞬間だ。それは「聖書と典礼」の表紙のイコンからもわかる。二つの建物が書かれているが、右の建物はエルサレムにあったイスラエルの神殿を、左の建物はキリスト教の教会を象徴している(クーポラ(丸天井)は、正教会の教会堂に特有)。真ん中の言葉は聖書を意味している。これによって、旧約の預言者たちが伝えた神の言葉が実現され、約束されたメシアが生まれた、ということが描かれているのだ。

  そこに突然、二人の年寄りが出てくる。二人とも、信仰深く、神を中心にして生活している。シメオンについては美しい言葉がある。「正しい人」、そして「イスラエルの慰められるのを待ち望み」。年寄りは先が短く過去を振り返りがちだが、シメオンは前向きだ。「慰め」は聖霊によって与えられる。彼は、ユダヤ人の中では一番いい者、いわゆる「残りの者」だ。イスラエルの民のうち多くの人が堕落し、わずかな人だけが忠実に、神の言葉を守りながら生きていた。シメオンはその一人だった。
 もう一人は、アンナという女性。彼女の年齡の84は12かける7だが、12はイスラエル12部族、7は完全を意味する。若い時に7年間だけ結婚していたようだが、当時の結婚は13、14歳だったから、20歳の頃から未亡人だったことになる。その間ずっと神殿で断食したり、祈ったりしていた。「アシェル族」とは、イスラエル12部族の一つ。イスラエルの土地が分けられた時に、アシェル族は一番豊かな土地をもらった。しかし、金持ちになったから、どんどん神から離れて、異邦人の宗教と混交し、神の掟を忘れた。アンナは大勢に組みせず、反発する勇気があった。だから、自分の信仰を貫いて生き、神がメシアを送るのをずっと神殿で待っていたのだ。
 マリアとヨセフがイエスを連れて神殿に入った時、神殿では何千人もの祭司が活動し、何千人ものの人たちが商売したり出入りしていたことだろう。しかし、神のメシアが近づいたと気づいたのは権力者でも宗教の代表者でもなく、この二人だけだった。この二人は、世間の多くの人たちの騒ぎの中で神に気づいたのだ。
 これは今日、教会が私たちに示す模範だ。こんにち、私たちは似た状況にいる。騒がしい世界、いろいろな声が聞こえる世界、神について、教会についていろいろな意見がある世界にいる。シメオンとアンナのような祈りの生活を送り、心の静けさ、鋭さ、正しさをもつように私たちは勧められている。
 だから、年をとることは問題ではない。問題はむしろ信仰がないこと、知恵がないことだ。必要なのは人を理解し人を助けることができる年寄りだ。そして、死とは終わりではなく、新しい世界に入ることだ。キリストに出会うことで、それまでの人生に意味が与えられるのだ。 

 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」。シメオンが唱えたこの言葉を、司祭と修道者は教会の祈りとして毎晩寝る前に唱える。この言葉の意味は、私は死が近いから、もうどうでもいい、若い人に任せるということではない。シメオンは、イエスがイスラエルのためだけではなく、全世界の救いのために来られたことに感謝しているのだ。素晴らしいのはそこだ。イエスは、神の憐れみを私たちに示すために来たのだが、憐れみはイスラエルにとどまらず、異邦人、全世界の人に伝えられなければならない。異邦人である私たちがキリストの知らせを受けキリスト者になったのは、イエスに会ったこのような人たちに伝えられたことなのだ。感謝したい。イエスは私たちのために生まれた。そして、その子は私たちのためだけではなく、人と分かち合うために生まれた。

 「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」。マリアへのこの言葉は一般に、イエスの十字架死による母マリアの悲しみを預言したものと解釈される。確かに、剣で胸を刺されている悲しみの聖母(mater dolorosa)は、どのような時代でもカトリック信者から大切にされてきたイコンだ(禁教時代の日本に潜入した最後の宣教師シドッチも「親指のマリア」の御絵を持参していた)。ところが、ベネディクト16世は『ナザレのイエス』第3巻で「マリアから私たちは、本当の同情[=ともに苦しむこと]を、つまり感傷的にならずに他者の苦しみを自分の苦しみとすることを学ぶことができます」(私訳)と言う。世界の苦しみを負うこと、苦しむ人のそばにいることが教会のミッションなのだ。私たちの神は苦しむことのない神ではなく、憐れみ苦しむ神だからだ。教皇フランシスコも、教会は罪に苦しむ人に対して、野戦病院でなければならないと言う。
 降誕節はまだしばらく、イエスの洗礼まで続く。少しずつ聖書の言葉を聞いて楽しみながら、先に進みたい。


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