年間第2主日

イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。(ヨハネ1・39)

ドメニコ・ザンピエーリ「洗礼者ヨハネとアンデレとヨハネ」、1623-28年、サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(ローマ)
ドメニコ・ザンピエーリ「洗礼者ヨハネとアンデレとヨハネ」、1623-28年、サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(ローマ)

 降誕節や復活節などの季節以外は年間と言われる。英語ではordinaryだ。つまり「ふつう」という意味だが、よく見れば、ふつうではない。たとえば、今日の日曜日までに私たちは降誕節を過ごしたから、ベツレヘムで生まれた幼子について十分観想し、幼子が誰かを聖書の言葉に導かれて知っている。だから、これから年間に入ると言っても、普段に戻るということではなく、イエスの活動が始まるということ。それは大きなイベントだ。私たち教会共同体、そして私たち一人ひとりがイエスによって神に出会うからだ。私たちの生活にそれ以上に大きなイベントはありえない。私たちはこれから一年間、心の目を開いて、イエスがどう生きているか、どんな言葉を私たちに語るかに注目しなければならない。長い旅をするイエスの後に歩みながら、学ばなければならない。私たちはイエスの弟子になったのだから。

 今日の第一朗読と福音朗読は出会いが中心だ。教会がサムエル記のこの箇所を第一朗読に選んだのは、サムエルが最初の預言者だったから。聖書はこの箇所だけではなく他の箇所でも、少年サムエルについて魅力的に物語る。当時はまだエルサレムの神殿はなかった。日本で言えば田舎の神社のような神殿に、年老いた祭司エリと侍者のような少年がいた。夜になると、祭司は自宅で休んだが、少年サムエルは、神殿に置かれている契約の箱の近くで休んだ。契約の箱は、日本の神輿のように神がその民に現存しているしるしだった。契約の箱の横には、聖体ランプのような明かりがその夜はまだ燃えていた(サムエル上2章参照)。なぜなら、当時は悪い時代で、人々は神から離れて金儲けに走り、エリの息子二人も堕落し(サムエル上1、2章参照)、神殿も神殿ではなくなっていた。それなのに、そこで神の呼びかけがあったのだ。腐敗した状態に慣れきっていたエリはそれを予想せず、少年が神の呼びかけを聞いても、すぐにはわからず、3回目になってやっと神の呼びかけだと悟った。この箇所を教会が今日の第一朗読に選んだのは、二人の弟子たちのイエスとの出会いが単純な出会いではなく、人生に深い影響を与える出会いであることをわからせるためだ。時間があれば、サムエル記上第1〜3章を読むと、とても勉強になる。

 福音朗読を見よう。イエスの降誕から30年後のことだ。その30年間について福音書はほとんど書いていない。イエスが復活してからイエスの福音を書いた人たちは、イエスの降誕について神学的に非常に深いページを書いた。しかし、その30年間については何も書いていない。そして、イエスが34歳の頃に、突然すべてが始まる。神の子が神の力をもって私たちを癒やし救う活動を始める。その瞬間は、信者である私たち一人ひとりにとって大きなイベントだ。そのイベントについて教会は福音書の言葉によって黙想するように私たちを助ける。 

 B年の今年、私たちはマルコ福音書を読むが、年間第二主日の今日は例外的にヨハネ福音書の箇所を読む。この箇所は短いが、ちょうどシンフォニーのように、ヨハネ福音書に出てくるさまざまなテーマが含まれている。

 この箇所は、呼びかけよりも出会いの箇所だ。「ヨハネは二人の弟子と一緒にいた」。洗礼者ヨハネはすばらしい人物だ。旧約聖書が終わって新約聖書が始まる瞬間に生きる最後の預言者で、力強い言葉と行いによってイエスが来るために心の用意をする。「歩いておられるイエスを見つめて」。ヨハネ福音書には目のシンボルがよく出てくるが、洗礼者ヨハネは、イエスに注目し、イエスを深く見る。私たちもそうすべきだ。
 「見よ、神の子羊だ」。これはすばらしい言葉だ。現代日本に住む私たちは羊に慣れていないが、聖書では羊に深い意味がある。「神の子羊」とは過ぎ越し祭で屠られる子羊のこと。それは、暴力を奮って罪人を力で倒すのではなく、柔和な態度で罪人を受け入れる方だ。私たちはミサの聖体拝領の前にいつも「神の子羊」と歌うが、イエスが神の子羊とはどういうことか。イエスは私たちの罪を背負って、私たちの身代わりになった神の子だ。「見よ、神の子羊だ」―この人は、私たちの罪をかぶって十字架の上で死んだ。この言葉はたいへんな宝物だ。イエスは、ただの先生、ただの賢者ではなく、私たちの代わりに十字架の上で死ぬ神なのだ。

  「イエスは振り返り、彼らが従ってくるのを見て、『何を求めているのか』」。洗礼者ヨハネの二人の弟子は自分が何を求めているかわからない。私たちも神を探しながらも何を求めているかわからない。イエスに出会う前、神がどういう方か、わからない。ただ何か悩みがあり、苦しみがあり、不安があり、物足りなさがあり、落ち着きがない―それが私たちの状態だ。個人的にも社会的にも家族的にもそうだ。だから、私たちは、何を探しているかを神に言えない。ただ苦労していて、ただ不安で、ただわからない。自分がなぜ生きているかわからないのだ。それで、彼らは聞く、「どこに泊まっておられるのですか」。この二人はイエスに、住所や電話番号を教えてくださいと言っているのではない。ヨハネ福音書では、「泊まる」「住む」「とどまる」(原語はいずれも同じ)という言葉には深い意味がある。あなたは一体誰なのか、どういう方なのか、あなたの本当のアイデンティティはどこにあるか、と二人は聞いているのだ。私たちはイエスとともに住まなければならない。

 「来なさい」。イエスは長々と演説しない。ただ「私の後について来なさい」と言う。私たち信者はみな、ある時それぞれの形でその声を聞いた。「そうすればわかる(そして見なさい)」。私の後について来て、私の言うこと、私のすることを見なさい、私の弟子になりなさい。
 「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ころのことである」。これはヨハネ福音書の大切なところだ。二人は、一日イエスといっしょにいて、見た。イエスはどんなことを話したか、二人はどう感じたか、二人の心にどう響いたか―私たちは知らない。私たちには想像もできない。でも、私たちは知っている。私たちもある時、そういう体験をした。私たちにも午後4時の体験がある。最初のきっかけを思い出そう。どういう人によってイエスに出会い、洗礼を受けたかを。信者になってから私たちは、疲れたり、納得できないことがあったり、教会に足りないところや問題があったりする。けれども、いつでもその最初の瞬間に戻るべきだ―イエスに出会ったその瞬間、イエスといっしょにいたその一日に。一生そこに立ち戻るべきだ。問題の解決はいつもそこにある。たとえば夫婦と同じだ。夫婦喧嘩をしたとしても、この人に出会った時、この人と結婚すると決めた時、この人といっしょになった時に戻るべきだ。そこに光がある。そこから問題を超えるための力が出てくる。
 「[アンデレは]まず自分の兄弟シモンに会って」。一日が終わって、二人は納得し、うちに戻る。けれども、落ち着かない。人に言わなければならない。宝物を見つけて、みんなのために役に立つことを見つけて、黙っていられないのだ。キリスト教の宣教はそういうものだ。キリスト教の宣教は、信者を増やす義務からではなく、話をしたいという気持ちから始めるのだ。その気持ちがあるかないかが、私たちの信仰が生きているか生きていないかのしるしになる。もし私たちが、イエスに出会ったことを人に伝えたい心があれば、実際に伝えられるかどうかはどうでもいい。それは私たちの問題ではない。でも、人に伝えたい心があるかないかが信仰のしるしだ。
 「そして、シモンをイエスのところに連れて行った」。もう一つの出会いがある。今度はペトロだ。ペトロのイエスとの出会いは大切だ。それは教会のイエスとの出会いでもある。ペトロはどういう人だったか。それは、ペトロの手紙や、福音書のあちこちの箇所からわかる。力のある人、リーダーシップのある人だ。でも、迷う時もある弱い人だった。そして、頑固なところもあり、えらそうにイエスに説教しようとした時もあった。
 「イエスは彼を見つめて」。「見つめて」とは、ヨハネ福音書に典型的な言葉。「見つめる」とは、深く見ること。私たちははじめての人に会うと、まず外面的なことを見る。どんな格好をしているか、いい服を着ているか。私たちは外面的なものを見る。金持ちか、どんな家族の人か、賢いか、どんな勉強をしたか、どんなキャリアがあるか。私たちは人を見る時、過去と現在だけを見ようとする。イエスはそうではない。イエスは人を見る時、その人がどんな人になれるかを見る。それは神の観察だ。
 「あなたはヨハネの子シモン」。これはペトロの家族を説明しているだけに見えるが、私はあなたの物語を知っているということ。私たちはイエスに出会い洗礼を受けたが、洗礼を受ける前にイエスの前に出て、私はこうこうこういう人で足りないもの、私は罪人ですとイエスに言うと、イエスは答える。私はあなたを知っている。あなたが生まれる前からあなたを知っている。でも、そうであるからこそ、聖人になれる。そういう罪人であるあなたこそ、そういう聖人になれる。あなたの欠点も、過去の間違ったことも、罪も、神の手の中で、作品に仕上げる材料になると。
 「ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」。つまり、あなたのその頑固さは、教会の土台になる。ペトロの弱さは、キリストに出会うための大きなしるしになる。イエスが受難にあった時も、まだわからずに、イエスを裏切るほど弱かったペトロが、イエスの手の中で、他の人がイエスに出会うためのしるしになる。それは、私たち一人ひとりの召し出しでもある。だから、神は私たちの過去ではなく、私たちの未来に、私たちの可能性に関心があるのだ。これがイエスの教えの中心であり、キリスト教だ。イエスのその教えは当時はスキャンダルだった。当時、罪人がイエスに近づくと、ファリサイ派の人たちはみな言った、この人は罪人と付き合っている、この人の友だちは悪人だと。それはスキャンダルだった。けれども、それがイエスの教えの中心だ。私たちはどんな弱さや限界があったとしても、どんな罪を犯したとしても、どんなことがあったとしても、イエスに出会うことによって、神が私たちを造った時私たちについてもっていた夢を実現することができる。
 そのためにどうすればいいか。イエスに注目することだ。イエスの言葉を愛し、イエスの行動を見つめ、イエスを観想すること。一言で言えば、イエスの弟子になることだ。
 今日、私たちはその呼びかけを聞いた。「来なさい」「見なさい」。今日から一年間、日曜日ごとに私たちは共同体の形でイエスに出会うことができる。だから今日は大きな喜びの日なのだ。


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