年間第4主日

聖マルチン教会(スイス・ツィリス)天井画、1130年頃
聖マルチン教会(スイス・ツィリス)天井画、1130年頃

 B年年間は第2主日にヨハネ福音書を読んでから、しばらくマルコ福音書を読むことになる。マルコによる福音書は4つの福音書の中でもっとも短く、言葉が少ない。そのため、長いあいだ注目されなかったが、現代の聖書学者はマルコ福音書を大切にする。マルコ福音書は最初に書かれた福音書で、マタイもルカもマルコを土台にしていると考えられている。マルコはペトロの弟子であることがほぼ確実だから、マルコ福音書にはペトロが目撃したイエスの言動が含まれている。そしてマルコ福音書はユダヤ人ではなく異邦人のために書かれたと考えられている。異邦人には今の私たちも含まれるだろう。キリストについて知るなら、マルコ福音書に戻るべきだし、人にも勧めるべきだ。マルコ福音書はそれほど大切な福音書なのだ。

 マルコ福音書第1章は、洗礼者ヨハネに始まり、荒れ野での誘惑を経て、弟子たちの召し出し(先週)に続く。しかし、福音書はイエスの誕生に始まり死と復活に至るまでの単なる記録ではない。まず最初にイエスの死と復活があり、それによってイエスが何者かを理解してから、イエスの生涯を詳しく読むのだ。降誕節を終えたところの私たちは、イエスがどういう方かを知っている。イエスが預言者より大切な方、神から送られた救い主、神の子であることを知っている。これから私たちはマルコ福音書に導かれながら、イエスの行動を少しずつ見ていくのだ。それは私たちに深くかかわることだ。私たちの健康のために、私たちの再生のために、私たちの解放のためにイエスがどのように働くのかを私たちは少しずつ見ていく。それは信者である私たちの心が喜びであふれる時だ。

 「一行はカファルナウムに着いた」。カファルナウムはゲネサレト湖のほとりにあった町。そこにはペトロが住んでいた家があり、そこに後に教会が建てられ、現在もその遺跡が残っている。イエスはその家に住むことになり、カファルナウムはイエスの活動の中心になる。

 「イエスは」。新共同訳には訳出されていないが、「すぐに」という言葉がある。マルコはイエスが大切なことを行っていると言いたいのだ。「安息日に」。安息日はイスラエルにとって一週間で一番大切な日だ。安息日に男たちは会堂に集まって、聖書を読み解釈し、祈りをした。「会堂に入って」。マルコ福音書でイエスが会堂に行くのは3回だ。「教え始められた」。イエスが会堂に行くのは祈るためではなく教えるため。マルコはイエスの言葉の力を私たちに示したいようだ。「人々はその教えに非常に驚いた」。「教え」という言葉はまた出てくる。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。今日の箇所の最後にも「権威のある新しい教えだ」。そして、「この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」。「言うこと」は「教え」と同じ意味。だから、短い箇所の中に同じ意味の言葉が何回も出てきているのだ。そこに注意すべきだ。マルコにとってイエスは、教える者、師なのだ。

 イエスが何を教えたか、マルコは言わない。ただ、イエスが教えたことを大切にする。そして、イエスの教えに対して驚きがある。「驚き」という言葉は2回出てくる。「人々はその教えに非常に驚いた」「人々は皆驚いて」。人々が驚いたのはイエスが「権威ある者」として話していたから。その比較の対象となるのは、律法学者たち、ラビたちだ。イスラエルでは、神学者が大切にされ、大祭司よりも尊敬されていた。彼らは、いろいろな学者の意見を集めて必要な時にそれを使って発言した。しかし、マルコが言うのは、イエスは律法学者のようではなかったから、人々は驚いたのだ。イエスは組織の中で任務を与えられていたわけではなかった。イエスの権威は彼自身から出てきていたのだ。イエスが公生活を始める前の30年間何をしていたかについてはいろいろな意見がある。マルコ福音書の別の箇所で、イエスは何の権威でこんなことを教えるのかと聞かれるから、イエスはどこかの学校で勉強したわけではないようだ。マルコが言いたいのは、イエスが神の子として私たちに語っているということ。イエスは神の子として私たちに語るのだから、イエスの言葉や行いに注意しなさいとマルコは言いたいのだ。イエスの言葉は人間の言葉ではない。その言葉は学者が繰り返す言葉ではなく、新しい世界を開く言葉だ。信者である私たちは聖書の箇所を何回も聞いたり読んだりしているから見逃す可能性もある。そこでマルコは注意する、この言葉は力のある新しい言葉だと。世の初めに、神はその言葉によって混沌からありとあらゆる美しいものを創造した。イエスは力のあるその言葉によって、私たちを癒やし元気にするのだ。

 この箇所には「汚れた霊」が出てくる。同じく悪霊が出てくる第5章では、いろいろな説明が詳しくなされるが、今日の箇所はコンパクトにまとめられている。霊と言うと、宗教と心理学を区別するこんにちの私たちには理解しにくいものがあるが、当時のユダヤ人にはそうではなかった。 「かまわないでくれ」。原文では、あなたは私と何の関係があるかという言葉。それは、精神的道徳的な問題があって、絶望に陥り救いを期待しない人の反応だ。たとえるなら、病人が病気にあきらめをつけてしまって、病室の外に出ず、医者が近づいて治療しようとしても、希望を失っている状態だ。しかし、イエスはそれに納得しない。イエスは私たちの病気にあきらめない。たとえ私たちがあきらめて、自分は地獄に行くから「かまわないでくれ」と断ったとしても。イエスは、私たちの罪と弱さに納得しない。自分が神であることを捨て、自分の命を捨てるほど私たちを救おうとする。それが今日マルコが私たちに言おうとしていることだ。

 「我々を滅ぼしに来たのか」。不思議なことに、「我々」と複数が使われているが、それは私たちの心の問題を意味しているともの考えられる。私たちの心は「一人」ではなく、分裂や矛盾があるからだ。私たちは子どもから大人になる時、周りの人たちからのいろいろな影響を受ける。母親や父親から聞いたこと、宗教の先生から聞いたこと、教会で習ったことを私たちは口にする。それで、私たちはみな、何か理想を抱いているが、生活は理想的でなく、傷や弱さを負っている。だから、私たちは人間関係が難しく、人間関係に悩む。夫婦であって、友人であっても、教会の仲間であっても、会社でも互いに傷つけ合ったりする。それは私たちが「一人」ではないからだ。 「我々を滅ぼしに来たのか」。たとえば、医者が子どもに注射しようとしても、子どもは医者が病気を治そうとしていることがわからず、痛いことをされるから、何か悪いことと思って嫌がるかもしれない。それが私たちの状態だ。ここでマルコは、私たちの洗礼の時の悪霊の拒否を思い出させているようだ。私たちもイエスに出会って洗礼を受けた時、そういう治療を受けたのだ。または何か自分に問題があって困った末に、赦しを願う力が出て告解を受けたことがあるかもしれない。イエスは汚れた霊との会話に入らない。イエスは私たちの態度にもかまわずに、ただ一言、「黙れ」。同じマルコ福音書で、湖の嵐が起きた時、眠っていたイエスを起こすと、海に向かって「黙れ」と言ったのと同じだ。すると、波は収まり穏やかになった。「黙れ。この人から出ていけ」。それは私たちが洗礼の時に聞いた言葉だ。今日もイエスは私たちの上でそう言う。「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出ていった」。イエスに会ってその声を聞いた時の深い感動が「けいれん」なのだ。

 小屋の中に閉じ込められた動物は扉を開けても小屋から出ないことがある。それはその環境に慣れてしまっているからだ。私たちもそうだ。守ってあげるから外に出なさいとイエスが言っても私たちは小屋の中で安心に思って外に出ないのだ。当時の律法学者たちは、律法の決まりを600ぐらいに増やして、人を奴隷にしていた。イエスはそうではない。イエスは人を自由にする。たとえその人が気づいていなかったとしても。たとえば放蕩息子は父親に再会しても、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言って、自分が奴隷であるように思っている。しかし、父親はそうではなく、放蕩息子に服と指輪を与える。あるいは姦淫の女は、律法学者たちが石打の刑にしようとしていたが、イエスの言葉の後、一人ずつみんな帰ってしまった。「あの人たちはどこにいるのか」とイエスに問われるまで、彼女は自分が自由になったことがわかっていなかった。私たちはイエスの言葉によって自由にされ、その自由によって新しく生まれることができるとマルコは今日私たちに言いたいのだ。

 「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」。福音宣教は癒やされた人たちの行動だ。これまで見えなかったものが見えるようになって、黙っていられないのだ。

 マルコ第1章には、ペトロの姑の癒やしの後、さらに悪霊の追い出しがある。聖書学者によると、マルコ第1章にはイエスの一日が描かれている。個人的にも読むようにしたい。

 私たちは神の子として語るイエスの力強い言葉によって自由になる。たとえそのことに気づいていなくても、たとえ周りに私たちを奴隷にしようとする人がいても、私たちは神から愛されているのだ。神の子として生きることができるように、マルコは今日イエスの力強い声を私たちに思い出させてくれたのだ。

 


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