年間第5主日

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコ1・31)

ジョン・ブリッジズ「キリスト、ペトロの姑を癒やす」、1839年、バーミングハム美術館
ジョン・ブリッジズ「キリスト、ペトロの姑を癒やす」、1839年、バーミングハム美術館

 今日の箇所を含むマルコ福音書第1章の箇所は、活動を始めたイエスの一日を描く有名な箇所。マルコらしい素朴な記述で、イエス自身の言葉も少ない。その一日にはいくつかの場面がある。第一の場面(先週)は、四人の弟子を連れて会堂に入ったイエスが悪霊を追い出す場面。他の福音書と違い、マルコ福音書では荒れ野での誘惑は詳しく描かれていないが、先週の場面は悪霊と対決する場面だった。イエスにとって、また私たちにとって大切な場面だ。今日の箇所は先週の場面の続きで、まず、イエスがペトロの家に行きペトロのしゅうとめを癒やすエピソード。その癒やしはプライベートな出来事だが、続いて、夕方になって、安息日が終わる。安息日については1521の掟があり、病人の癒やしだけではなく見舞いさえ禁じられていたが、安息日が終わり、掟から自由になると、町中の人がペトロの家の戸口に集まり、イエスは癒やしを行う。第1章の最後には、重い皮膚病の人の癒やしもある。

 ペトロの家はゲネサレト湖のほとり、会堂の隣にあり、近くにはいろいろな店が港まで並んでいた。ペトロのしゅうとめの癒やしのエピソードは短いため見逃されがちだが、大切で、安息日、高熱、女性といった、さまざまな神学的なシンボルがある。イエスは弟子たちに言われて、しゅうとめに近づくが、特別に何も言わず、彼女の手をとって、起こす。「起こす」という言葉はギリシア語でエゲイレイン。新約聖書ではマタイでもルカでも使徒言行録でも復活を意味する言葉だ。起こされた彼女は、救いのしるしとしてイエスをもてなし、兄弟たちをもてなす。「もてなす」という言葉はギリシア語でディアコノス。それは荒れ野での誘惑の後天使たちがイエスに「仕えていた」と言われるのと同じ言葉だ。だから、この癒やしは単純な癒やしではなく、イエスに奉仕するためのエピソードだ。ペトロの家は教会を意味する。病気の人のベッドの脇に教会が始まる。ペトロのしゅうとめはもしかしたらイエスと歩んでいた婦人たちの一人だったかもしれない。

 悪霊の追い出しや癒やしといったエピソードがあって、小さな町で評判になる。そして、安息日が終わった瞬間に、人々がペトロの家の戸口に集まる。ありとあらゆる病気をもった人たちを中心に街中の人が集まったのだ。たいへんな騒ぎだったことだろう。

 ただし、ここにすでに、マルコ福音書に繰り返し出てくるテーマが現れる。それは、イエスとペトロの考え方の違いだ。ペトロはイエスを理解するために長いあいだ苦労した。そのことをペトロはきっとマルコに話したのだろう。

 その違いが特に出てくるのは、教えと癒やしの一日が終わった後の成功と人気の晩だ。イエスはみんなから注目され、大切にされ、求められる。ペトロ(まだシモンと呼ばれている)は、その人気を見てすぐに、それを利用しファルナウムに留まるようにイエスに勧めただろう。そこに問題が出てくる。次の朝のことだ。他の人たちが起きて気づく前に、イエスは一人家を出て、寂しいところに行って、祈る。振り返り考えるためだ。マルコ福音書には、私を拝むなら全世界を与えようという悪魔の言葉(マタイ4・9)について書かれていないが、同じテーマがマルコ独特の形でこの箇所に出ているのだ。一人で祈るイエスは、父なる神の前に立ち、どのような道を歩むべきか、神のみ旨が何かを考える。つまり、ペトロの勧めに従って、成功したカファルナウムにとどまるか。それとも、そこから出ていくか。弟子たちはイエスがとどまることを求める、「みんなが探しています」。イエスは却って、他のところに行くことを決心していた。人気にとどまるのは自分の道ではない、十字架の道を行くべきだ、と。その二つの道が、今日の福音箇所のテーマだ。イエスは気づいた、みんなが彼を探すのはイエスが宣言しようとする神の言葉ではなく、健康といった現世利益のためにすぎない、と。第一朗読で示唆されているように、父なる神は人間の苦しみに関心をもっていて、イエスもそうだ。しかし、彼が宣言したい神は苦しみを除いてくれるだけの神ではない。イエスの教会が存在するのもそのためではないとイエスは知っている。それを理解しない人たちは最終的に利己主義的で、神のことを理解できないのだ。このことはマルコ福音書の特徴で、それを聖書学者は「イエスの秘密」と呼ぶ。イエスは、悪霊の追い出しの時も、変容の時も、人に話さないように何度も指示するが、それはイエスが自分の人気ではなく神の言葉が受け入れられることを求めているからだ。だから、イエスは人々が王にしようとしたとき逃げたのだ。メシアの道は、現世利益や、人気、賞賛、名誉にあるのではないとイエスは理解している。彼にとって、癒やしの奇跡は、別の次元にある神のみ旨を理解するためのしるしにすぎない。父なる神への正しい信仰は奇跡から生まれるものではない。十字架によってのみ、彼の道ははっきりする。たとえばトマス・ア・ケンピス『キリストに倣いて』では、イエスの後に行く人は、奇跡の時は多いが、十字架の時は少ないと書かれている。

 イエスの学校で教育を受けたペトロ自身、それがなかなかわからず、理解するのに一生かかった。イエスに関心をもちイエスを愛しているが、イエスの十字架を理解しない。受難を予告するイエスにも「そんなことがあってはなりません」と言って、「サタン、引き下がれ」と言われる。今の私たちの教会にも同じ危険がある。イエスの弟子になるのは、イエスから利益や慰めを受けるだけではなく、十字架の次元で生きること。イエスの秘密はそれによってのみ明らかになる。

 

 ヨハネ福音書によると、イエスは他のところに行かなければならないと言う。イエスが離れることによって、弟子たちは一人前になり、イエスが来た意味を深く理解するようになるのだ。だから、キリスト教は強制的な宗教ではなく、自由を与え育てる宗教だ。今日の福音書は、イエスのような道を祈りのうちに見出すことを私たちに勧めている。


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