四旬節第1主日

イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。(マルコ1・13)

モレット・ダ・ブレシア「野獣の真ん中にいるキリスト」、1515―1517年、メトロポリタン美術館所蔵
モレット・ダ・ブレシア「野獣の真ん中にいるキリスト」、1515―1517年、メトロポリタン美術館所蔵

 天使たち、荒れ野の野獣、空の虹――今年B年の四旬節第一主日の魅力はその意外なイメージの組み合わせにある。イエスの荒れ野での誘惑については、具体的な内容を詳しく語るマタイ(こちらを参照)やルカと違い、マルコ福音書にはわずかなことしか書かれていない。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。しかし、マルコはこの短い箇所で四旬節の私たちの黙想を深めてくれる。

 今日の朗読箇所で第一に注目されるのは野獣。説教する司祭たちはよく、イエスの誘惑について細かく説明するが、野獣を素通りしてしまう。しかし、野獣といっしょにいたとは何を意味するのか。これについては若干の解釈がある。

 第一に、野獣とは荒れ野でのつらい経験を意味する。イスラエルにとって、荒れ野は、相反する二つの意味を思い出させる。荒れ野とは、自分の弱さを経験した辛い場所であると同時に、神の根本的な経験をした場所だ。つまり、荒れ野は罪と癒やしの両方を意味するのだ。イザヤやエレミヤは、荒れ野での根本的な心細さ、寂しさ、つらさ、罪や神の罰を表現するために野獣を出す。知恵の書11・15もそうだ。

 四旬節の旅に出る私たちにとって、野獣とは、自分の生活の暗い片隅を調べ自分の弱さを見出して見つめる旅のつらさを意味する。同時に、イエスに従いイエスとともにその旅に出る人は、イエスのように神から送られた天使の助けを得ることができるということもマルコのこの箇所で示唆されている。

 第二に、野獣は、個人の心の中にいるだけではない。たとえばダニエル書7章を参照すると、別のニュアンスがある。そこには獅子や熊や豹など野獣が登場するが、それはバビロンやペルシアなど当時イスラエルを圧迫していた周辺の大国を意味する。野獣とは、貧しく弱い人々を脅かす武力や暴力なのだ。誘惑を受けた後宣教を始めたイエスも、政治的経済的宗教的な残酷な権力者と戦うことになる。そのことをマルコははじめから言っておこうとしているのかもしれない。

 四旬節の典礼とのつながりで言うなら、洗礼志願者はイエスとともに戦う者、コンペテンテース(こちらを参照)になることを覚悟しなければならないということだ。しかし、イエスの後をイエスといっしょに歩く決心をするなら、神からさまざまな形で助ける力や人が送られる。それが天使だ。天使はただ翼をもつ存在ではない。生活の中で、また教会の中で私たちをあらゆる形で助けてくれる神の力だ。私たちもイエスのように天使に囲まれている。だから、荒れ野と言っても、ホセアが語ったように(2・16)、神との出会い、親密さ(インティマシー)、愛情、恋愛の場所という面もあるのだ。

 悪霊(サタン)の誘惑を斥け勝利をおさめたイエスは、神の道を歩む完全なイスラエルのシンボルだ。そのために荒れ野は潤い花咲く場所になる。そうすると、荒れ野にはエデンの園のニュアンスも出てくる。おとなしくなった野獣に静かに囲まれるイエスというイメージを描くこともできる。だから、第三に、野獣には、否定的なニュアンスだけではなく、肯定的なニュアンスもある。美術作品ではよく、真ん中に座ったイエスの周りにさまざまな動物が描かれる。この場合、野獣がいるのは調和のシンボルだ。古いアダムではなく新しいアダムであるイエスが、神が造られた世界に平和に生きて、父なる神と兄弟とよい関係をもつことを示唆している。このことは、洗礼志願者に向けては、自分の中にあるさまざまな弱さに気づきながらも希望を失わず、兄弟たちや世界とよい関係をもつことができるというメッセージになる。この箇所は過去のためではなく未来のために書かれている。マルコ、そしてこの箇所を選んだ教会が志願者と信者に言いたいのは、イエスの後に歩く人は心の安定を見いだすということ。自分の心にさまざまな弱さがあっても、自分自身とも、世間とも、兄弟たちとも調和を保つことが可能なのだ。

 キリストに癒やされた世界については、イザヤ11・6−8でイメージ豊かに表現されている。今日の箇所を理解するためにはこのような美しい箇所をぜひ読んでおきたい。そうすれば、アウグスティヌスの有名な言葉も思い出されるだろう。「私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができない」。それは志願者の実感ではないか。

 イエスに出会うことで、すべての問題が一気に消えるわけではない。イエスの道に入る人には、彼のように困難もある。けれども、イエスに出会いその名で洗礼を受ける人は必ず、平安が与えられる。サタンも乱すことができない内面的な平安だ。イエスに出会うことで命が再生するのだ。

 第二に注目されるシンボルは第一朗読にある。それはノアの洪水の物語の最後に出てくる。中東には、7、8千年前に起こった洪水についての神話的伝承がある。その物語をもとにイスラエルの祭司文学は、人間の罪や神からの罰について考えた(創世記6・5―9・28)。すべてを創造した神が、ある段階で、人間を造ったことを自ら後悔しているようだ(6・5―7)。神は、人間が神自身ではなく、互いに対して、また自然に対して犯した恐ろしい悪に心を痛め後悔さえする。しかし、たとえ人間が悪いことをして洪水が起きても、残りの者――この場合はノアの家族――がいる。だから、悪があるとしても神への信頼を失わず希望を持ち続け絶望しないように聖書は語る。創世記のその箇所でも、神は新しい世界を約束する。古い世界の瓦礫の上に新しい世界が続けられるのだ。それはノアから始まる救いの歴史だ。 

 その救いのシンボルであるのが虹。虹はすぐ消える。せいぜい数分見えるぐらいだから、山のようにいつも見えるものではなく、直観的だ。そこに虹の魅力がある。私たちは虹を見ると、他の人にも見るように促したり、スマホで写真を撮ったり。その儚い美しさは神からの語りかけのようだ。虹は、ヘブライ語でケシェット。ケシェットとは、弓のように曲がったものを意味する。虹は天と地、神の世界と人間の世界をつなぐ契約のシンボルになる。

 虹は大雨の後に現れる。虹は雨上がりのしるしだ。だから、洪水の後の契約の際に出てくる(創世記9・13−16)。注意しなければならないのは、契約と言っても、「あなたたちが罪を犯さないなら」という条件を神はつけていないこと。つまり、その契約は条件付きの契約ではなく、無条件の赦しであり完全な愛なのだ。そのしるしである虹も、私たちが見るものであるより先に、神自身がそれを見てその約束を自ら思い出すための目じるしなのだ。神は虹を見て、自分の約束を思い出す――人間を滅ぼさず人間を祝福するという約束を。神は罪人を滅ぼさず恵みで満たす。その愛は永遠の愛だ。そして、虹はその最初の契約のしるしだ。アブラハムのノアはまだイスラエル人人でもキリスト教徒でもイスラム教徒でも仏教徒でもなく、新しい世界の最初の人間なのだ。その彼の上に、神の考えられない愛と祝福が注がれる。

 四旬節を考えると私たちがすぐに連想するのは断食や犠牲や苦行だ。ところが、今日の典礼はこのような聖書の朗読箇所によって、神に、そしてイエスに心を委ね希望をもつように勧めている。

 第二朗読のペトロも彼なりの仕方で同じことを言っている。ノアの洪水の時、8人だけが救われたが、その8人は、罪を赦されただけではない。彼らが救われたのは、それによって新しく創造され生まれ変わって生きるためだ。だから、その赦しにはキリストにつながる積極性がある。洗礼の水は、一方では古い人間に死ぬことを、他方では新しい人間に生まれ変わることを意味する。それが本当に可能になるのは、イエスによってだ。イエスは十字架上で死んですべての人に命を捧げたから。教会は今日、新しい世界が生まれることを洗礼志願者に宣言する。


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