四旬節第3主日

イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2・21、22)

グエルチーノとバルトロメオ・ジェンナーリ「神殿から商人を追い出す」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館所蔵
グエルチーノとバルトロメオ・ジェンナーリ「神殿から商人を追い出す」、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館所蔵

 今日ヨハネ福音書記者が示すイエスの姿は、ふつう私たちが知っているやさしい姿と違っている。しかし、今日のエピソードはイエスを知るために大切だ。それは他の3人の福音書記者も書いていることからわかる。今日の箇所を理解するのが難しいのは、その中に旧約聖書とのさまざまな関連が隠れているから。また、私たちがふつうよく考えない神殿というシンボルが出ているから。さらに、今日の箇所には、イエスにとって宗教とは何か、そして宗教の中でイエスが私たちのためにどんな役割を果たすかという大きなテーマがある。入り組んだところのある箇所だから、いくつかのポイントにしぼって考えてみたい。

 他の福音書ではイエスの活動期間は1年ほどで、イエスが神殿に行くのもその最後に1回だけ。それに対してヨハネ福音書では活動期間は3年で、イエスが神殿に行ったのも3回だ。そして、今日の箇所は、イエスがその最初、しかも公生活の最初に神殿に行く箇所。 

 第一に注意すべきなのは、イエスがエルサレムに上がって神殿に行くたびに、祭司長たちと争いが起こること。それは、神と宗教についてイエスが抱くイメージが彼らとはずいぶん違うから。そのことは最初にヨハネが使う表現からわかる。「ユダヤ人の過越祭」。これはヨハネ独特の表現だ。旧約聖書ではいつも「主(ヤーウェ)の過ぎ越し」と呼ばれるのに、「ユダヤ人の」とは批判的なニュアンスがある。ヨハネにとって「ユダヤ人」という言葉は、民一般ではなく、祭司長のように、宗教の中で権力を握っている民の指導者のこと。ヨハネにとって、過越祭は、エジプト脱出の記念ではあっても、むしろそれよりユダヤ人たちがその権力を誇示する機会だった。儀式や儀礼、典礼はすべて彼らの権力と利益の口実になる。

 イエスは幼いころからイスラエルにとっての神殿の意味を理解し、神殿に憧れ神殿を愛していた。しかし、その日イエスが神殿に行くと、彼の予想どおり、そこは感謝や祈りや礼拝の場ではなく、商売の場だった。神殿は巨大な建物(「建てるのに46年もかかった」)で、数百メートルの長さがあった。硬貨を両替する人たちの列といけにえのための動物を売り買いする人たちの列が延々続いていて、混み合い、騒がしかったようだ。動物の匂いや糞便もあっただろう。動物をいけにえとして燃やしたから、その肉や油の煙も立ち込めていただろう。「牛や羊や鳩を」。これは大きい順に挙げられている。「座って両替をしている者たち」。神殿では皇帝の像がある硬貨が禁止されていたから、神殿で使う硬貨に両替する必要があった。間違ったり、ごまかしたりすることもあっただろう。そして、およそ20%の両替料も徴収されていた。両替や動物の販売を担当して儲けていたのは、祭司長たちの家族のようだ。

 ユダヤ人にとって、神殿は何よりも神が現存する場所だった。いろいろな部屋がある真ん中に神が臨在する至聖所があった。それにもかかわらず、神殿が商売の場所になっていたから、イエスは失望し怒っている。ヨハネは、イエスの気持ちを表現するために、ギリシア語でゼロスという言葉(日本語訳では「熱意」)を使った。ゼローティ(熱心党)もそこから派生する言葉だ。ヘブライ語でもギリシア語でも現代欧語でも、ゼローティに当たる言葉は、テロリストのように武器を使って人を殺すほどの人たちを意味する。つまり、ゼロスという言葉の意味には暴力を振るって他人に強制するほど激しい熱狂も含まれる。ヨハネはこの言葉が入った旧約聖書の言葉を引用する。「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」。これは来るべきメシアに使われた言葉だ。 「イエスは縄で鞭を作り」。これは、事実ではなくシンボルにすぎないかもしれない。とにかく、それ自体は暴力でないが、450人の異邦人の祭司を殺したエリヤを思い出させる。旧約聖書によると、メシアの役割の一つは罪人から神殿を清めることだった。そのような厳しい態度でイエスは商売と両替の場所を回った。

 「羊や牛をすべて境内から追い出し」。先とちがい、ここでは最初に羊が挙げられている。そして、イエスは羊には怒らずに、羊を外に出すのだ。ある解釈によると、羊とは、一般の弱い人たちのこと。彼らは祭司たちに多くのお金を払って、宗教の奴隷になっていた。羊は、初代キリスト教では、弟子たち、信者たちを意味する。よい牧者であるイエスは力をふるって彼らを自由にする。ヨハネにとって、メシアであるイエスは、宗教の奴隷である貧しい人たちを解放するために来たのだ。

 「両替人の金をまき散らし、その台を倒し」。イエスが怒っているのは、権力を握る祭司長たちであり、宗教で金を儲けて利益を得る人たちに対してだ。

 「鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」。イエスは鳩を売る人には力を行使しない。鳩は、ヨセフとマリアのように貧しい人たちが神に捧げるものだった。そして、ヨハネ福音書には、神の霊が鳩にたとえられる箇所もある。

 大切なのは、イエスが批判するのが、律法に従って生きている貧しい庶民ではなく、祭司長たちだということ。彼らは権力を乱用し、自分の利益のために神の名を使い、宗教を金儲けのために利用する。イエスは、金、評判、名誉、地位、権力を追求する人たちに非常に厳しい。たとえよいことをするにしても神の栄光のためではなく自分の名誉を求めてするのは、神の名前で商売することだ。イエスにとって、神の愛をお金で売り買いすることは通常の罪より重い罪であり、いわゆる大罪に当たる。それは偶像崇拝であり、売春のようであり、神の目には疎んじられる行為だ。こんにちも、またキリスト教だけではなく、他の宗教にあっても、権力や金と宗教のつながりは重大な問題だ。日本でも、新興宗教による詐欺が大きな問題になることがある。

 しかし、ここに少し注意すべき点がある。福音書記者ヨハネは、エリヤを思い出させるイエスの行動について書く。そして、イエスが神殿を罪人たちから清めるために来たと考えている。しかし、それはまだ福音書のはじめだからで、ヨハネはまだ暴力や権力への誘惑を感じているからだ。変容の出来事を見てもペトロたちがイエスをまだ理解していなかったように、ヨハネもまだイエスの行動の意味がわかっていない。ヨハネと他の弟子たちは、イエスが死んで復活した時はじめて理解する。イエスが来たのは、神殿を清めるためではなく、そういう石の神殿を止めさせるためだと。それはサマリアの女の箇所に出てくる。「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4・21)。メシアが来る時、神が現存するのは石の神殿ではない。それはヨハネの福音書のテーマだ。イエスが示す神はそれまでと違った完全に新しい神だ。神殿では恵みを受けるために牛や羊などのいけにえを屠る必要があった。しかし、イエスの神はいけにえを求める神ではない。預言者イザヤも言う、「お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」(1・11)。だから、イエスが宣言する神は、人間のいけにえを必要とせず、人間のために自らいけにえになる神だ。神がご自身を私たちに捧げることによって、私たちは救われる。

 イエスの行動は当然、大騒動となった。そこに出てくるのは、イエスを止める警備員のような人物ではなく、ふたたびヨハネの言うユダヤ人、つまり祭司長たちだ。しかも、彼らの関心はイエスを止めることではなく、イエスがどんな権限と資格をもっているかということ。つまり、イエスが誰かということ。いつものように、ユダヤ人は信じるためのしるしを求める。「しるし」とはヨハネの神学の言葉だ。しかし、イエスはユダヤ人の要求に応じない。イエスにとっては、信仰はしるしの後ではなく、信仰が先にある。見たから信じるのではなく、信じたから見るのだ。

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」。このやり取りには神学的な意味がある。ここで、「神殿」を指す言葉は二つの異なった意味で使われているようだ。ユダヤ人たちが言う「神殿」とは、その巨大な建物全体のこと。その中にはさまざまな区域があった。異邦人も入れる区域、女性は入れない区域、病人や障がい者は入れない区域、祭司しか入れない区域、祭司長しか入れない至聖所、と奥に行くほど制限があった。イエスが言う「神殿」とはその至聖所を意味していたのだ。だから、イエスとユダヤ人とのやり取りには食い違いがある。この食い違いは、実際のやり取りの食い違いと言うより、福音書記者ヨハネの神学的な意図から来ていると考えられる。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだった」。この言葉で、ヨハネは、イエスがメシアであることを宣言し、自分の弟子にもそれを教える。イエスこそ本当の神殿だ。神の愛と力と栄光が現れる本当の神殿は、人間の手で作られた建物、さまざまな区域に分けられた建物ではなく、イエスの体そのものだ。愛のために十字架上で殺され復活したイエスの体は神殿だ。

 後にパウロは、イエスを信じる人も神殿だと言う。信者一人ひとりも教会もそうだ。以前の古い神殿の時には、そこに入るためには、汚れなく清らかでなければならず、神殿には人を差別するさまざまな区域があった。それに対して、イエスが十字架上で息を引き取った時、神殿の垂れ幕が裂けて、人と人、神と人を分ける区別がなくなった。だから、すべてが一つになる。神の国は、ヨハネ黙示録の最後にあるように(21・2)、天から賜物としてこの世に入ってくる。 もっとも、こうしたことはまだ垣間見られるにすぎない。すべてがわかるのは復活の後だ。復活の経験の後、そして信仰によって自分を委ねた後はじめて、それを完全に理解することができる。

 最後に少し悲しい言葉がある。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」。イエスの行動を見て、多くの人がイエスを信じたが、その信仰はまだ完全ではなかったのだ。ここには、「マルコの秘密」に似たことがある。人々はまだまだわかっていない。ヨハネ福音書もまだ始まったばかりだ。特にヨハネの場合は、十字架につけられることがすでに「上げられる」ことだ。そのことがわからなければ、今日の箇所で黙想したこともつかの間の直観にすぎない。イエスに出会って洗礼を受けても、その信仰は失われやすい。洗礼志願者の信仰もまだまだだ。警告のようなその言葉で今日の箇所は終わる。


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