受難の主日

二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。(マルコ11・7)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「マエスタ―エルサレム入城」、1311年頃、シエナ大聖堂付属美術館所蔵   
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ「マエスタ―エルサレム入城」、1311年頃、シエナ大聖堂付属美術館所蔵   

 受難の主日(枝の主日)から聖週間が始まる。この週の典礼は私たちの個人的信仰だけではなく、教会の信仰の真ん中に十字架を据える。聖週間の福音朗読はイエスの受難物語が中心だ。受難物語は新約聖書の中でもっとも古くもっとも大切な部分で、新約聖書の他の部分は、受難物語の注釈のようなものとよく言われる。福音書の中でも受難物語は長く、他の部分は前書きのようなものとも言われる。受難物語を会得しないでいてはキリスト者でありえない。イエスの受難物語の細部を考察するだけではなく、四人の福音書記者それぞれの見方を踏まえておくと理解に役に立つ。簡単に説明すると、ヨハネの受難物語は、四旬節第5主日のように、イエスの時を強調する。ヨハネは、神の子であるイエスが栄光を受ける時(12・24)として十字架を中心にするのだ。それに対して、ルカはその受難物語で、イエスに倣って、迫害する人を赦す(23・34)ように、また神の手に自分を委ねる(23・46)ように信者を指導する。マタイにとって、イエスの死の神秘を理解するために旧約聖書の助けが必要だ(27・43、または詩編22・9)。

 今年B年の受難の主日はマルコの受難物語が読まれる。マルコの受難物語は簡潔で明確で個性的だ。マルコの福音書は短いが、十字架の経験は突然訪れることなく、さまざまな形で何度も予告される。それがいわゆるマルコの秘密だ。イエスはその生涯の中で少しずつ十字架に近づいていく。マルコが描くイメージによると、イエスは生涯を通して孤独な生き方をし、人から理解されず、人に距離を置く。最後にいじめられ、通りかかる人にもからかわれて死ぬのだ(15・29、32)。ゼッセマネでも、いっしょに目を覚ましているべき弟子たちは寝てしまい、イエスは一人自分の苦しみに向かう。イエスが捕らえられた時も、弟子たちは逃げてしまう。裁判の最中にペトロが裏切った後、雄鶏はイエスの予言どおりに鳴く。群衆の前に引き出される時は強盗の横に立たされ、そして彼よりも強盗が釈放され、兵士たちからは笑いものにされる。マルコの特徴だが、イエスは受難の時、言葉を発しない。ただ最後に父なる神に向かって「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15・34)。マルコは時間を追うごとに、裸にされるイエスを描く。3時(新共同訳では9時)に人間から見捨てられ(15・25―32)、6時(同12時)に宇宙から見捨てられ(15・33「全地は暗くなり」)、9時(同3時)に父なる神から見捨てられる。そこに完全なケノーシス(空しくなること)が表現される。兵士たちがイエスの服を分ける(15・24)ことがそのシンボルだ。イエスは、まったくの裸で、支えてくれる人はひとりもなく、共同体から見捨てられ、神からも見捨てられ、通りかかる人の冷酷なまなざしにさらされ、完全な孤独の中、いじめられて死ぬ。その姿をマルコは描く。しかしながら、まさに暗闇が支配するただ中に、「されこうべの場所」に、イエスの存在の意味が完全にあらわれる。イエスがどういう方かが全世界に対して明らかにされるのだ。不思議なことに、イエスのそのアイデンティティに気づくのは、イエスの弟子でもユダヤ人でもなく、一人の異邦人、イエスの処刑を担当していたローマの百人隊長だ。それがマルコ福音書の決定的瞬間だ。イエスの顔はそこにあらわになる。「本当に、この人は神の子だった」(15・39)。

  聖週間が始まる今日この日、マルコはイエスの弟子に、そしてイエスに惹かれて近づく洗礼志願者に、今一度イエスの十字架を、たとえ離れたところからでも見るように導きたいのだ。

 マルコにとって、十字架はイエスの生涯の絶頂だ。マルコにとって、十字架とはケノーシス――権力を捨てて弱くなることだ。十字架はイエスの全生涯を表現する。イエスは力を脱ぎ捨て、人の弱さを身につけ(受肉)、人のそばに来る。そのことは、第二朗読に選ばれたフィリポ書の箇所(2・1−16)に書かれている。だから、十字架は、非暴力、自己放棄、赦し、和解、限界のない愛、癒やしだ。それは、自分を主人公ではなく、無にすることだ。第一朗読に選ばれたイザヤ書の箇所はそれを示唆している(50・4−7)。十字架上で死んだイエスはそれによって悪に勝利して、愛の勝利を示す。マルコはイエスの受難物語によって、イエスの弟子になりイエスのような生き方をするように勧めたいのだ。

 最後にもう一つ。今日の典礼の最初に、イエスのエルサレム入城が記念される。イエスはエルサレムで殺されて死に、エルサレムで復活する。今日の典礼はその受難物語を再現することによって、イエスが権力をもったメシアではなく、愛のために自らを低くした神であることを宣言する。だからイエスは権力者の馬ではなく、旧約聖書のザカリヤ書を思い出させる子ロバを使って謙遜な姿でエルサレムの町に入る。イエスのその弱い姿は一方では、不思議なことに、強い人の反発を買い、そのためにイエスは殺される。しかし他方では、信じる人にとって命のしるしとなるのだ。


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