年間第19主日

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6・51)

聖ドミニコ女子修道会京都修道院聖堂
聖ドミニコ女子修道会京都修道院聖堂

 学校の夏休みや盆休みがある8月は特別な月。教会でも信者が帰省や旅行で移動して、落ち着かない。ちょうどその時期に教会の典礼はマルコ福音書の朗読を中断し、有名なヨハネ福音書6章を私たちに示す。最後の晩餐の記述がないヨハネ福音書だが、そこで聖体が取り上げられている。じっくり読むことができなくても、その箇所に大切なことがあると意識したい。それは私たちにとって大きな恵みだ。ヨハネは、イエスは何者か、そして聖体は何かを彼なりの仕方で私たちに教えてくれているのだ。

 今日の主日はその3回目だが、第6章は一つの出来事の簡潔な報告で始まった。それをヨハネは奇跡ではなく、しるしと呼ぶ。しるしはヨハネ福音書では重要な言葉。ヨハネが言いたいのは、外面的な出来事そのものが大切なのではなく、その裏に本当に大切な意味が隠されているということ。だから、心を開いて、イエスが行った事柄が指し示しているものに目を向け、イエスが何を伝えようとするかに注目することが肝心なのだ。

 その出来事の後に、カファルナウムでイエスが群衆(ユダヤ人)に説明する長い箇所が続く。そこにはさまざまなテーマが出てくる。一つ一つのテーマは、ダイヤモンドのきらめきのように、互いに映し合う。あるいは、ヨハネ福音書に特異なスタイルとして、次々と打ち寄せる海の波にもたとえられる。

 それだけではない。教会の典礼は2000年の経験に基づいて、もう一つの助けを今日私たちに示す。第一朗読で読まれたエリヤのエピソードは、旧約聖書で特異なテーマだ。迫害を受けて逃げるエリヤ。もっとも、ヨハネ福音書の今日の箇所に出て来るのは、迫害ではなくつぶやきだ。つぶやきとは、聖書では単なる文句ではなく、反発を意味する。そこではイエスの言葉に対するユダヤ人の反発が出て来るから、教会はこの箇所を理解するためにエリヤの迫害のエピソードを私たちに読ませるのだ。

 当時、イスラエルの北の王国はアハブが王。その妻イゼベルは聖書では一番の悪女として知られる。彼女は、異邦人の国フェニキアの女性で、イスラエルの神ヤーウェではなくバアルの神を信奉し、アハブと結婚したときも、北の王国にその宗教を広げようと、何百人もの祭司を連れてきた。当然、イスラエルの預言者たち、特にエリヤとのあいだに摩擦が生じる。エリヤは殺される危険を感じて、エルサレムのずっと南に逃げるが、荒れ野でイゼベルの家来たちに追いかけられ、疲れ力を失い絶望して神への信仰も揺らぐ。どうして私はこんな目に遭うのか。私には未来がない。もう死にたい。彼は神を疑ったのだ。そして寝てしまう。旧約の他の預言者にもそんな時期があった。その時、エリヤは、パンを食べ水を飲むように天使から言われる。それは、彼の信仰が生まれたホレブの山に向かって歩き出す力になる。

 だから、教会が言いたいのは、イエスによって神に出会った私たちにとって、聖体はその出会いに戻る力になるということ。聖体は信仰の根源に戻るための糧なのだ。エリヤだけではなく、他の人物もそうだ。モーセも燃える柴に出会う前に信仰の試練を体験した。だから、教会は、エリヤのエピソードが私たちにも役立つと考えたのだ。神は創造の原初だけに存在するのではなく、キリストによって私たちの旅路の糧になる。孤独や絶望や反発にあって死さえ考えるときの神の呼びかけなのだ。

 カファルナウムでのイエスの説教をよく見ると気づかれるのは、イエスに対する反発はいつも一つのポイントから出てくること。ヨハネが言うユダヤ人にとって、イエスはスキャンダルだった。スキャンダルとは、つまずかせる石のことだが、ユダヤ人たちは、イエスが人間であったことに引っかかっていた。「ヨセフの息子のイエスではないか」(42節)。同じ問題はマルコ福音書にも出てくる。それは、イエスに出会わない人たちに共通する問題だ。彼らの妨げになるのは、イエスの謙虚さであり、イエスによって示された神の私たちへの親しさだ。イエスが近くなって目に見え手で触れるようになり、私たちのうちの一人になったから、彼らにとっては大きな邪魔なのだ。不信と言ってもいい。それがヨハネにとっては最大の問題だ。そのことは、ヨハネ福音書の序文でも言われている。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(1・12)。イエスに具体的に出会うのは大きな恵みであるにもかかわらず、神がイエスによって私たちの友、支え、同伴者となったのは彼らにとっては妨げだった。受肉と十字架はスキャンダルなのだ。

 興味深いことに、この箇所では明確に聖体について語られている。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」(6・51)。この一文は、ヨハネ共同体のミサの奉献文の中心の言葉だったかもしれない。パウロ、マタイ、マルコ、ルカは、ソーマ(体)という言葉を使うが、ヨハネはサルクス(肉)という言葉を使う。ソーマは物質的で生きていないものだが、サルクスは生きていて、弱いものだ。ヨハネ福音書の序文の「言は肉となっ…た」(1・14、カイ・オ・ロゴス・サルクス・エゲネト)でも同じ言葉が使われている。ヨハネは、十字架にかけられて殺されるイエスの弱さを考えて、サルクスという言葉を使っているのだろう。

 この箇所は、別の意味でも大切だ。「わたしは、天から降って来た生きたパンである」。「わたしは…である」(エゴ・エイミー)は、出エジプト記3・14に基づいてヨハネがしばしば使う表現であり、イエスの荘厳な自己定義だ。「私は世の光である」(8・12)「わたしは羊の門である」(10・7)「わたしは良い羊飼いである」(10・11)「わたしは復活であり命である」(11・25)「わたしである」(18・5)。だから、聖体はただのシンボルではなく、イエス自身であり、神の啓示なのだ。

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。イエスに出会うのは外面的な出会いではない。ヨハネによると、イエスに惹かれその言葉に帰依しそのパンを受け容れる男女は、キリストのようになる。パウロも言う、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)。ミサで聖体を拝領するのは、私たちの生活を変える許可をイエスに与えること。それに対して、つぶやく人、反発する人は、霊を悲しませることになる(エフェソ4・30)。最後の晩餐でイエスはその体を食べ物として与える。その命、その魂、その心、そのすべてを、私たちが永遠の命を生きるために。 


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