年間第25主日

イエスは、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。(マルコ9・36―37)

アレクサンダー・マスター「イエス、一人の子供を弟子たちの真ん中に立たせる」、1430年、オランダ国立美術館(デン・ハーグ)所蔵
アレクサンダー・マスター「イエス、一人の子供を弟子たちの真ん中に立たせる」、1430年、オランダ国立美術館(デン・ハーグ)所蔵

 先週の年間第24主日に、イスラエルの果てへのイエスの旅を私たちに伝えたマルコ。これから、イエスの逆方向の旅、エルサレムへの旅を報告してくれる。それは2つの理由で特別な旅だ。第一に、その旅によってイエスは、自分の使命、自分が何のために来たかを弟子たちに理解させたい。その旅は、イエスが弟子たち、そして私たちをどれほど愛しているかを知らせる旅だ。第二に、その旅のさまざまなエピソードから、弟子たちがイエスを理解し受け入れることに苦労していることが読み取られる。その苦労は弟子たちだけではなく、私たちの苦労でもあるから、彼らが苦労したことは私たちの助けにもなる。

 イエスと弟子たちの旅と言うと、私たちはふつう、イエスが12人の弟子たちに和やかに囲まれて歩いている姿を想像する。しかし、興味深いことに、マルコ10章32節によると、イエスは弟子たちに構わず一人で先を歩き、弟子たちはずっと後から文句を言いながら歩いている印象だ。今日の箇所でも、イエスは家に着いてから弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねる。イエスが一人で恐れ苦しみながら先を行き、何もわかっていない弟子たちが後からバラバラに互いに言い争いながら歩いている情景が目に浮かぶ。この箇所の記述から私たちは、受難に近づく時、そして受難の時のイエスの深い孤独と弟子たちの理解の困難を予想できる。エルサレムへの旅は重大だ。私たちも、人生の暗闇の中でキリストの後を歩いている。

 マルコは受難の予告を3回それぞれ違った形で書き記しているが、それには教育的な意味がある。弟子たちはイエスの予告を理解するのに3回とも苦労するのだ。今日の箇所は、イエスからペトロが「サタン」扱いされる先週の箇所に続いて、2回目の受難の予告。弟子たちは自分たちのあいだでは話をして口論するのに、イエスに向かっては質問さえ怖れている。

 「一行はカファルナウムに来た」。カファルナウムは、弟子たちがよく知っている場所だ。カファルナウムで彼らは最初に、イエスの権威と奇跡と人々の驚嘆―つまり受難と死の予告とは矛盾すること―を目撃して、イエスがメシアだと信じたのだ。「家に着いてから」。「家」とは、イエスが住む家。信者に向かって書いているマルコは、キリスト者の共同体、教会を考えている。それは、イエスが誰かをわかるために一番ふさわしい場所だ。私たちの教会共同体を考えてもいい。

 「イエスは弟子たちに…お尋ねになった」。弟子たちが怖がっているのに対して、イエスはもう一度イニシアチブをとる。イエス自身は自分の道がどのような道かをはっきり知っており、疑うことはない。だから、それを知るために弟子たちに尋ねるのではなく、弟子たちの理解を気にかけて尋ねるのだ。「途中で何を議論していたのか」。ギリシア語でも、単なる会話ではなく、激しい言い合い、口論や喧嘩を意味する動詞が使われている。

 「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論しあっていたからである」。信じられない事態だ。彼らの愛するイエス、友であり主であるイエスが自分の受難と死について話したのに、彼らが議論していたのは自分たちのうちでだれが偉いかだった。彼らの関心は人間的な権力であり、人よりも上であることだ。弟子たちはまだ、イエスがこれから、自分たちが想像していた神の国を権力によって開くと思っていたようだ。イエスの言葉を信じることがまだできなかったのだ。ちょうど父親が自分が死ぬ話をする時に、子どもたちが財産について議論するのと同じ事態だ。だから、弟子たちはふさわしくないことを議論したと気づいて黙る。

 当時もこんにちも、ユダヤ人は上下関係に大きな関心をもつ。旧約聖書にも書いてあるが、ラビたちは、道を歩く時に誰が先に行くべきか、会堂や食卓で誰が前に座るべきかなどいつも議論していた。死後の世界にもランクがあるとラビたちは論じている。その一例がファリサイ派の人と徴税人のたとえ(ルカ18・9−14)だ。要するに、他人よりも偉いかどうかが彼らの関心だったのだ。

 

 弟子たちのこのような状態を読むと、私たちは滑稽に感じるほどだ。しかし、少し考えると、それは私たちの状態でもある。家庭でも学校でも地域でも職場でも、収入や地位などで他人より目立ったり、賞をもらったりすることが関心の的になる。イエス自身、こうした問題に対して深い関心があり、自分のメッセージを中断するほどだ。

 「イエスが座り」。それはラビが教えるときの典型的な姿勢だ。マルコはイエスの言葉を記す前に、まず教師としてのイエスの姿を描くのだ。イエスに知恵があり、これからイエスは教師として大切なことを教えると言うのだ。それは過ぎ去る言葉ではなく、真実を述べる言葉であり、神の言葉だと言いたいのだ。二千年間黙想してきた教会もこの箇所を読む時、そのことをよく理解して、第二朗読としてヤコブ書から知恵について触れている箇所を選んでいる。「12人を呼び寄せて言われた」。カファルナウムの家はきっと会堂のように大きくはなく、小さな家だっただろう。しかし、弟子たちがすぐ近くではなく遠くにいたかのように「呼び寄せて」とマルコは記す。つまり、イエスと弟子たちのあいだには精神的な距離があったのだ。

 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。注意すべきだが、誰もが同じ才能をもっているとかどの仕事も同じ価値がある、とイエスが言いたいわけではない。イエスは人のあいだに何の違いもない悪平等を教えたいわけではない。例えば家を建てることが服を作ることと同じというような単純なことを言いたいわけではない。イエスはさまざまな神からの召し出し、カリスマ、役割があるとよく知っているが、誰も他人よりも偉いわけではないのだ。「仕える者」。ここではディアコノスというギリシア語が使われている。この言葉は助祭をも意味する。助祭とは仕える者なのだ。

 そこでイエスは、ヨハネ福音書が記す最後の晩餐の洗足式と同じように、自分にとって大切なこの教えを理解させ遺言として残すために、言葉だけではなく、一つの動作を使う。それは、弟子たちの頭だけではなく、彼らの目、彼らの想像力に働きかけるためだ。

 「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」。ここに出てくる「子供」は、10・13に出てくる「子供たち」とは違う。その箇所に出てくるのは赤ちゃんのように幼い子供で、自分では何もできず愛情を受けるだけの存在を意味し、それが神の国に入るための条件になる。それに対して、この箇所の子供は、さまざまな雇い人の中でいちばん下で働く少年だ。現在の先進国では子供の労働は法律によって禁じられているが、かつては子供が使い走りなどの簡単な労働のために使われていた。英語で言うボーイ、日本語で言う丁稚に当たるだろう。そのような子供がイエスの周りにいたのだ。「手を取って」。ギリシア語では「強く引っ張る」という意味の動詞が使われている。イエスは少年を自分の方へ力強く引き寄せたのだ。「真ん中に立たせ」。真ん中とは師であるイエスがいる場所だ。「抱き上げて」。抱くとは一つになるということ。イエスは自分がその子供と同じだと言いたいのだ。メシアもその子供のようにいちばん下で人に仕え(ディアコノス)、自分の命を人に与えると弟子たちに教えたいのだ。

 「このような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れる」。イエスと同じ生き方をする人を受け入れる人はイエスを受け入れるのだ。雇い人は給料のためにするが、それもなく人に尽くす人はイエスと同じなのだ。いちばん偉くなりたい人はこの子供のようになりなさいということ。奉仕する人、他人に尽くす人こそ、イエスの教会の基準であるべきだ。

 弟子たちの想像する神の国とはちがって、イエスが望む共同体は偉さが基準とならない。教会は、偉くなるための機会や名誉を提供する場所でない。自分が目立つため、人の上に立つための場所ではない。教会とは、一人ひとりが神から受けたカリスマや賜物によって人に尽くす共同体なのだ。神の目から見ると、いちばん偉い人とはみんなの召使い、僕になる人、イエスに似た人だ。今日の箇所を理解するためには、イエスの全生涯を考えに入れるべきだ。ここで示されているのはイエスが弟子たちに残した最大の教えであり、イエスの青写真だ。そのことがはっきりするのは何よりも感謝の祭儀の時だ。

 今日の箇所にはこんにちにも大切な教えがある。今の私たちの社会は競争社会であり、さまざまな能力や才能、美貌や社会的地位で人の上に立つことが関心の的になる。しかし、イエスは、社会の中で見捨てられた人たちにも目を向けるように私たちに教える。イエスの弟子が受け容れるべきなのは強い人ではなく、病気や高齢、偏見や貧困のために弱い立場にいる人だ。社会で役に立たない人、もらうことしかできない人もそうだ。たとえ問題も起こす人であっても受け入れるべきだ。もちろんそのような人を甘やかすだけではなく成長させることも必要だ。そのためには理解や知識がなければならない。当時の弟子たちもこんにちの弟子である私たちも当然それを理解するのに苦労する。それを実現するのは簡単なことではない。主日の聖体を拝領する時、イエスは今日の箇所のような言葉を基準とするように私たちに言い続けている。


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