年間第27主日

天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。(マルコ10・6)

ロレンツォ・ギベルティ『天国への門』、1425-52 年 、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(フィレンツェ) 
ロレンツォ・ギベルティ『天国への門』、1425-52 年 、サン・ジョヴァンニ洗礼堂(フィレンツェ) 

 マルコ福音書によると、受難と死と復活の場所であるエルサレムに向かう旅の途中、イエスは弟子たちと人々にさまざまなことを教える。第一に、彼自身について。イエスが何者かを理解するのに弟子たちも人々も苦労していた。第二に、イエスは、弟子としてイエスに従うとはどういうことかを教える。
 主日の福音朗読では飛ばされる箇所もあり、その中にも大切なことが書いてある。しかし、主日の福音朗読箇所を続けて読むだけでも、私たちはイエスを知り、それによってイエスを愛しイエスの弟子としてイエスに従うとは具体的にどういうことかを少しずつ理解していく。その理解のための力もイエスは聖霊として注いでくださる。

 先週のテーマは権力だった。今日の福音朗読のテーマは離婚とよく言われるが、そうではない。イエスに対して出されたのは離婚の問題だが、イエスが問題にするのは女性と男性の関係であり、愛だ。

 「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」。カファルナウムを出たイエスは、エルサレムに近づいていく。「ファリサイ派の人々が近寄って、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた」。離婚の問題を扱うのは、こんにちでは裁判所や弁護士だが、当時のユダヤ社会ではラビたちだった。モーセの後、律法(トーラー)による離婚についてさまざまな解釈や意見があった。しかし、離縁するのは男性の権利で、些細な理由(料理を焦がした、病気になった、ただ気に入らないなど)で離縁することが許されており、女性の苦しみの原因ともなっていた。離縁された女性の立場を示すアグナーというヘブライ語もある。追い出され、金もなく、離縁状がなければ再婚さえできないという悲惨な状況だった。
 「イエスを試そうとしたのである」。ファリサイ派の人々は、離縁される女性たちを助けようとして、イエスに尋ねたわけではない。実はイエスがその時滞在していたのは、ヘロデが離婚して別の女性を妻としたのは罪だと訴えた洗礼者ヨハネがサロメの一件で殺された地方。だから、彼らは、イエスを罠に落とすために質問をしかけたのだ。
 さて、イエスはどうするか。イエスは、細かい法律の問題に入らない。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。モーセは神から啓示を受けた預言者で、ユダヤ人にとってはもっとも重要な人物だった。「心が頑固」とは、神が人間について何を思っているか、神の言葉、神の意志、神の掟がわからない鈍感さのこと。だから、離婚が許されたとしても、それは神の考え方ではないのだ。
 「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。…神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。イエスは、創世記の有名な箇所を引用する。それは今日私たちが第一朗読として読んだすばらしい箇所だ。
 創世記は、旧約聖書の最初に置かれているが、書かれたのはイエスの降誕の約500年前。数千年にわたるユダヤ民族の宗教体験の真骨頂だ。「人間とは何か」「人間がこの世界に現れたのはなぜか」「なぜ男性と女性がいるのか」――どんな時代のどんな民族でも抱くこのような根本的な問題に対するユダヤ民族の解答がまとめられたのが創世記だ。科学的な記述ではないが、文学的神話的な様式で、大切なことを伝えようとする。
 今日の第一朗読の箇所は、天地の創造について書かれた第二章。復活徹夜祭でも読まれる箇所だ。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」。自分を鏡に映して見ながらであるかのように、神は人間を自分と似た姿に造ったが、神は人間が孤独であることに気づく。
 神が三位一体であることは旧約聖書では隠されていたが、イエスによって啓示された私たちの信仰の根本だ。神は遠いところにいる方ではなく、生きている方で、愛の動きが神の中にある。古代教父たちは、踊りを意味するペリコレーシスというギリシア語を使って、父と子と聖霊のあいだの喜びと幸せの動きを表現しようとした。
 しかし、神はその自らに似たものとして人間を造ったのに、人間は何か寂しそうだ。宇宙の中にただ一人アダムがいる。神は天も星も山も川も緑も造って人間のものにしたが、人間には会話できる相手がいなかったのだ。人間は、神のように自分の中でコミュニケーションができない状態だった。

 「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」。人間には、他の生き物にない神と似た力があって、ものに名前をつけることができる。しかし、ものは会話ができない。人間に合うものがいなかったのだ。

 「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた」。手術のために麻酔を受けると、意識がぼんやりして何もわからなくなる。手術が終わって麻酔が切れると、自分の体の周りのガラスの鎧が突然に割れる感じがする。何かあった気がするが、何があったかわからない。同じように、神が人間に何かして、人間は何かあったと感じるが、何があったかはわからない。人間を越えた神の世界に入るとき私たちは何もわからない。アダムはその体験をしたのだ。
 「人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。「あばら骨」と訳されているが、それは訳の一つの可能性に過ぎない。ヘブライ語の原語tselaには他にもさまざまな意味があり、半分という意味もある。だから、神はアダムが眠り込んだ時、アダムを二つに分けたとも理解できる。
 「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。
k『ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから』」。
 目が覚めたアダムは、宇宙の中にはじめて、「彼に合う(kenegdo)」相手、自分と会話ができる相手、友にも敵にもなる相手を見い出して驚く。これが聖書が言う男と女の創造の意味であり、イエスはそれを掘り起こそうとしたのだ。
 女をはじめて見たアダムは、女が他のものとちがい、土で造ったものではなくて、自分の一部だと言う。それは、聖書学者によると、最初の愛の歌であり、最初の雅歌だ。
 それは過去の出来事ではない。一人の男の子が、幼い頃から近所や幼稚園や小学校でいっしょにいた女の子をある時はじめて異性として意識する。それまで身だしなみを気にかけなかったのに、ある時はじめてポケットに櫛を入れて出かける。女性の前で男性であることを意識すること――それが神の世界でアダムに起きたことなのだ。
 こんにち、ジェンダーという言葉が使われる。ジェンダー論は、男性であること、女性であることが自然ではなく、文化に由来することだと主張する。赤ちゃんを男性として育てたり女性として育てることから、男性になったり女性になったりする。それはキリスト教に反対する考え方で、世界中で流行している。しかし、イエスの考え方ははっきりしている。
 ただ、アダムはまだ誤解している。「わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」。アダムはまだ自分が上だと思っているのだ。しかし、私たちは見過ごしてしまいがちだが、今日の箇所でイエスは女性に対する男性の優位を否定している(11、12)。ユダヤ人社会では、離縁は男の権利だったが、イエスが言うのは、男性と女性は同じものということ。人間は観音開きの扉の両側にある柱のようなもの。男性も女性も大切で、神に似ている。
 今日の箇所でイエスがファリサイ派の人々に言うのは、離婚の権利があるかないかという法律的な問題ではなく、神の考えに戻るべきだということ。そこからすべてが出て来る。それは、男性と女性の関係、あるいは家族の問題だけでなく、私たちの日常生活のさまざまな問題の中心にある。たとえば教会の中で意見が違ったり性格がぶつかったり問題が起こる時、どう解決すればいいか。イエスが言うのは、家族であっても職場の人間関係であっても教会の中の問題であっても、こんにちの問題を本当に解決するためには、原点に戻るべきということ。
 私たちはこの十月、パパ様の言葉に従い、教会の一致のために祈る。つまらない問題で考え方が違うからと言ってぶつかるのではなく、根本的なことを考えるべきだ。たとえば、キリスト者になろうとしたのはどういうことだったか。その最初の瞬間に戻ることが今の問題の解決になる。


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