年間第29主日

あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。(マルコ10・38)

ニュルンベルクのおとめの祭壇画のマイスター「オリーブの園のキリスト」、1425年、シュテーデル美術館
ニュルンベルクのおとめの祭壇画のマイスター「オリーブの園のキリスト」、1425年、シュテーデル美術館

 今日の福音箇所を読むにあたって、直前の32ー34節を読むと理解に役立つ。それは忘れがたい光景だ。イエスが一人先に行き、弟子たちがずっと後ろの方で歩いている。「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」。この光景によってマルコは内面を表現しようとする。長い旅の途上で、イエスは3度目に受難を予告するが、弟子たちはなかなかわからない、否、わかろうとしないのだ。

 今日の典礼のために選ばれた箇所は、イエスが愛した弟子、他の弟子より優れ後には神学者とも神秘主義者とも呼ばれるヨハネが兄弟ヤコブといっしょにイエスのところに走ってきて、甘やかされた子供のようにおねだりする場面で始まる。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。それを聞いたイエスの落胆と孤独を十分に想像できるだろうか。それは、オリーブの園で弟子たちが眠る時と同じ孤独だ。どうしてこんなことがありうるのか。3年間イエスと歩き回り、大勢の人たちが癒やされたり食べ物で満たされたのを目撃した弟子たちなのに、イエスがエルサレムで十字架につけられて死ぬと3度言ったことをまったく理解できないとは考えられないことだ。しかし、イエスは彼らの鈍感な態度を見ても、怒りも気を落としもせずに、もう一度愛情と忍耐をもって、彼らにとって理解し難くても彼自身にとって大切なことを説明しようとする。それはイエスが世に来た最終的な目的だ。

 「あなたがたは、自分が何を頼んでいるか、分かっていない」。右と左に座るとは他人に対する権力をもつことを意味する。二人の弟子が願っているのは権力だ。彼らには権力欲がある。それがこの世のあらゆる悪の原因だとわからないか、権力欲が人間を不幸にし、神から離れるきっかけになるとまだわからないか、とイエスは言うのだ。

 イエスのこの言葉が正しいことを示す証拠として、教会の歴史で最初のシスマ(分裂)が彼の目の前で始まる。他の10人の弟子たちはその時きっと少し離れていたが、そのことを聞き嫉妬に駆られてヨハネとヤコブに怒る。弟子たちは互いにライバルになるのだ。第一の予告の時のペトロへのイエスの言葉にもかかわらず、弟子たちはみなそれぞれの形で、自分が一番になりたかったのだ。それは、その後教会の歴史の中で何度も起こった事態だ。大きな教会にも小さな教会にも、私たちの共同体にも起きる事態だ。イエスの孤独と失望は計り知れない。

 「イエスは一同を呼び寄せて言われた」。イエスは忍耐をもってもう一度彼らを教育しようとする。エルサレムはすぐそこだ。世間の考え方に染まっている弟子たちがなかなか理解できないイエス自身の考え方を説明しようとするのだ。世間の考え方とイエスの考え方は正反対だ。マルコは世間の考え方とイエスの考え方の違いを強調しようとする。マルコを参考にしてこのエピソードを記録するルカは、そのやさしさのせいか、あるいはルカの時代にはヤコブがすでに殉教していたからか、ヨハネとヤコブの代わりに母親が頼んだということにしている。もっとも、ルカは、それがもっと悪い状態だとは考えなかった。つまり、二人だけではなく彼らの家族にもそういう世間的な考え方があることが明らかになる。それは重大な点だ。

 「先生、…わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。彼らは甘やかされた子供のように、神が自分たちを必要としていると考えて、その結果イエスに条件をつけている。彼らがまだわかっていないのは、救いが自分の活動の結果ではなく無償の賜物であること。

 「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。イエスは他人を束縛する権力の危険を指摘する。強者は弱者を圧迫するのだ。マルコ福音書の読者はローマ人であり、ローマ帝国の独裁を身をもって知っていたから、イエスの言葉が正しいことがよくわかったことだろう。

 そして大切な点だが、「しかし、あなたがたの間ではそうではない」。ここでイエスの基準が提示される。イエスはさまざまな機会に権力の問題に触れたが、この箇所でその教えをもっとも明確に示す。「いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい」。そしてイエスは自分がヤーウェの神の僕として来たこと、仕えられるためではなく仕えるために来たことを明言する。 イエスの言葉では2つの神学的なしるしが用いられている。洗礼と杯だ。洗礼とは、苦しみの血の海に沈むことだ。それは受難を意味する。イエスはエルサレムの敵の中に行き、受難の海に沈むのだ。杯は聖書では両義的だ。一方では慰めや喜びを意味する(たとえば、詩篇23・5)。しかし、杯は、他方では神の審判と怒り、苦しみを意味する(特に詩篇75・8)。イエスは神の僕として受難と死によって全人類の罪を身に背負った時は、恐ろしい苦しみの杯を飲んだ。マルコが伝えるように、イエスはゲッセマネの園の孤独にあって、父なる神に向かって言う、「アッバ…この杯を私から取りのけてください」(14・36)。イエス自身それを避けることを望んだが、最終的にそれを飲むことになる。ヨハネ福音書でも、同じくオリーブの園でペトロがマルコスという人の耳を剣で切った時に、イエスは言う、「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」(18・11)。だから、杯は受難を意味する。イエスは後もう少しでエルサレムに入るところだ。エルサレムでイエスは敗者としてではなく、自分の命を進んで自分を捧げた者として死ぬのだ。右と左に座りたいと言う二人の弟子に対してイエスはそう答える。イエスは敵に対する勝利を捨て、罪人を滅ぼさない。そして、永遠の食卓に主人として座らずに、召使いとして食卓に座る人の給仕をする。イエス自身は権力を捨てるのだ。だから、イエスはエルサレムで殺されることだけではなく、その道を愛のために自ら受け容れたことを弟子たちに教えようとするのだ。彼はそのためにエルサレムに向かっているところだ。

 イエスの言葉では身代金についても短く触れられている。イエスの命が人を罪から解放する身代金になったことはまさにパウロが、それもマルコの読者でもあったローマ人に向けて説明している(ローマの信徒への手紙6・16−23、8・14−24)。 要するに、イエスの教えを伝えながらマルコが言いたいのは、弟子たちの共同体のいちばん上の席は王座の右と左ではなく、十字架の右と左の場所だということ。

 今日の箇所には「異邦人の間では」「あなたがたの間では」という比較がある。ギリシア語では、その比較は接続法でも命令形でもなく現在形で書かれている。だから、それは勧めや望みや願いではなく識別の基準なのだ。もしそうであるなら、イエスの共同体だということ。だから、それはただの理想ではなく、今現在の私たちの共同体を識別する基準になる。僕の心についてはパウロのフィリピへの手紙にも書かれている(2・4ー11)。 今日のような箇所は結末のある物語ではない。ちょうどマタイ福音書の最後の節と同じように、またルカ福音書の放蕩息子のたとえ話の最後の父の言葉と同じように、結末がない。なぜなら、それは私たちの事柄だから。今日の言葉は私たちに向けられている。


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