この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した (ルカ4・21より)
もっとも、歴史の中で行われた出来事を見て、そこに満ちている意味(今日の箇所に出てくる「霊」)が誰もにわかるわけではない。そのためには特別な態度が必要である。イエスをみんなが認めたわけではなく、認めたのは数人だけだった。そして、その出来事は確実なことであり、私たちの信仰の土台となるとルカはテオフィロに言う。イエスの眼差しや身振りに注目するルカが私たちに伝えるのは、抽象的ではなく、リアルなイエス――手で触り、耳で聞くことができるイエスだ。
第4章の箇所についても一つの点に注目したい。その日たまたま読まれたイザヤの箇所は、来るべきメシアについて書かれていた。それは有名な箇所だったから、当時のどのラビも言及していた。その箇所についてイエスは革命的な解釈をした――その者は私であり、その日は今日であると。この「今日」という言葉はルカがよく使った言葉だ(天使が羊飼いたちに「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」2・11、中風の人が立ち上がり、人々が「今日、驚くべきことを見た」5・26、イエスがザアカイに「今日、救いがこの家を訪れた」19・9、十字架上で強盗に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」23・43)。
救いは今日実現する。私たちは別の人を待つ必要はない。イエスは、私たちが救われることをはっきりと全面的に伝える。
(2016年の黙想の再掲載)