今日は復活節第6主日だが、まだ復活節だということを私たちは忘れてしまいがちだ。神が近くに来ていろいろなことを私たちに経験させたにもかかわらず、私たちは世間のことに気を取られて復活祭を遠くに感じる危険が大きい。けれども、信者にとって大切なのは意識すること。イエスは今私たちのうちにいるのだ。福音書には、十字架にかけられたイエスが弟子たちのうちに生きていることがはっきりと書かれている。
復活節第5主日と第6主日はヨハネ福音書13−15章から選ばれた箇所が読まれる。いずれも最後の晩餐の時のイエスの話だ。どの福音書も深いが、ヨハネ福音書は特別な言葉遣いだから、私たちは読むのに苦労する。しかも、教会のミサでは福音書が少しずつ読まれるが、私たちは先週の日曜日の箇所を忘れ、次の日曜日にどの箇所を読むかもわからなかったり。ミサで特定の箇所だけを読むと、理解に苦労する。今日の箇所で一体ヨハネがイエスについて何を言いたいか。私たちの頭だけではなく、私たちの全体に何かを経験させたいのだろうが、一体何を経験させたいか。ここでは、今日の箇所の全体について話すより、輝くダイヤモンドのように印象的な3つの点にしぼって説明したい。
1.23節から25節まで。「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」。この最初の言葉は有名な言葉だが、よく誤解される。この言葉を読んで私たちは自然に、掟を守ることでイエスへの愛を示さなければイエスから愛されないと考えてしまう。しかし、それは人間的な考え方だ。たとえば、父親が子どもに「もし何々するなら、愛するよ」と言うなら、それは条件つきの愛だ。しかし、この言葉をそのような意味で理解するなら、まったくの間違いだ。注意しなければならない。イエスが言うのは、あなたたちが掟を守って私への愛を示すなら私はあなたたちを愛するということではない。イエスが言うのは、私を愛するなら、私の言葉を守ることができるということ。そして、私たちはイエスに愛されたからこそ、イエスを愛しイエスの言葉を守ることができるのだ。つまり、福音書を読むときには、常識とはまったく逆の考え方をしなければならない。たとえば、ルカ福音書の有名なたとえ話、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話がそうだ。二人とも祈りのために神殿に上がったが、ファリサイ派の人は、自分は他の人とちがって十二分に掟を守るから、神から愛されていると考えた。イエスが言うのはそれは大間違いということ。それに対して、「神よ、私を憐れんでください」と胸を打ちながら祈った徴税人こそ、赦されて愛を受け家に帰った。今日の箇所のイエスの言葉もそういうことを言っている。これはキリスト者にとって大切な点であり、今日の箇所の第一のダイヤモンドだ。私たちはイエスから愛されその愛に答えようとするからこそ、イエスの新しい生き方に倣うことができ、家庭や社会でイエスの言葉を守ることができる。イエスから愛されてイエスを愛するのでない限り、私たちはどう生きるべきかがわからない。イエスの愛によって私たちはキリスト者としての信仰生活を送ることができるのだ。
「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものでなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。父とイエスは一つ。父なる神の言葉はイエスによってわかる。イエスの顔の上に父なる神の光が輝いている。今日の箇所の前の箇所では、弟子の一人が「御父をお示しください」と言うと、イエスは答える、「わたしをわかっていないのか。私を見た人は父を見た」。キリスト者とはイエスの顔の上に神の輝きを見ることができた者だ。神は見えない。しかし、人間が目で見ることができない神がイエスによって人間のそばに来た。イエスの言葉、彼が送った生活、彼が示した愛の態度を見ることで神がどういう方かがわかる。先の日曜日の福音に「わたしがあなたがたを愛したように」とあったが、イエスの態度によって神がどういう方かがわかり、生きる意味もわかるのだ。だからこそ、キリスト者にとっては、掟よりイエスとの関係が大切なのだ。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」。これは奇妙な言葉だが、ヨハネが最後の晩餐について書いたのは何十年も後のこと。すでにイエスは見えなくなっていた。だから、このような言葉は復活したイエスの言葉と言える。
以上が第一のダイヤモンドだ。その前にとどまり、祈りの心をもって黙想してそのきらめきを楽しみたい。
2.「しかし」。話は変わる。「弁護者、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。今度は聖霊がテーマだ。弟子たちは、イエスが見えなくなることを察し不安に感じる。そこでイエスはその新しい状態を説明するのだ。イエスが使うのは弁護者という言葉だ。この言葉は裁判に関する言葉だ。