キリストの聖体の祭日は、カトリック信者に親しまれた大切な祭日。さまざまな神学的理由のためだけでなく、この祭日が世に自分たちの信仰を証しする機会だからだ。
半面、聖体の祭日には、観想的神秘的で、アニマ(女性の魂)的なところもある。そもそもこの祭日が始まったのは一人の女性から。それは13世紀
*ベルギーの聖ジュリアーナだ。彼女は子供の頃から聖体に対して深い信心を抱き、あるヴィジョンを受けて、友だちに話し、少しずつ司教から認められる。そのうち、その司教がパパ様になり、その後すぐではなかったものの、聖体の祭日が定められた(詳しくは
こちら)。とにかく一人の女性の体験――幼子を抱く聖母マリアのようにイエスの体への愛情を込めた関わりー―がカトリック教会全体の体験になった。聖ジュリアーナだけでなく、例えばライン川神秘主義の有名な女性神秘家たちは聖体の霊性に非常に敏感だった。アヴィラの聖テレジアもイエスの人間性に深い感動を抱いていた。シエナの聖カタリナの手紙にもイエスの血についての有名な箇所がある。
*教会の歴史の中で13世紀は聖体の信心にもっともすばらしい表現を与えた。さまざまな讃歌や絵画、大聖堂や教会堂がそうである。
今日の祭日のために教会が選んだ三つの朗読はどれも簡単に見えるが、理解や黙想、祈りや礼拝のために、溢れるほど豊かな神学的霊的テーマを含んでいる。
第一朗読は、メルキセデクの物語。どこから来たかもわからない異邦人の祭司メルキセデクがアブラハムを祝福し、パンとぶどう酒を神に捧げる。神と民を仲介する祭司がイスラエルにまだいない何百年も昔のことである。この不思議な物語を教会は聖体の予型として読む。
第二朗読は、最後の晩餐についてのパウロの記録。イエスの体についての初代教会の考え方がわかる大切な箇所である。
福音朗読は、四つの福音書に豊富に報告されているパンの増やしの出来事。ただし、この箇所は奇跡についての単純な報告ではない。ルカは奇跡という言葉も使わないし、この箇所を外面的に読めばさまざまな矛盾がある。神学者であるルカはさまざまなヒントを使って、文字通りの出来事より深いことを私たちに言いたいのだ。そのヒントをざっと挙げると以下の通りだ。
1.「満腹した」(17節)はマナを食べて「満腹する」(出エジプト記16章)出来事を示唆。2.同様に、食べて満腹しない食べ物に対して満腹する食べ物(イザヤ55章)を示唆。3.同様に、エリヤのパンを焼く壺の粉がなくならない出来事(列王記上17章)を示唆。4.「人里離れた所」(12節)は、イスラエルの民がさまよった荒野を示唆。イエスの後を追った群衆もイスラエルの民のように自由を求めていた。5.「そのようにして[=イエスが言ったことを行って]」(15節)はモーセが預言する預言者(申命記18章)を示唆。6.「日が傾きかけた」(12節)は、エマオ(24:29)を示唆。7.「賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して」(16節)は、イエスが復活後に弟子たちにすること(24:30)
を示唆。8.「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。弟子たちはイエスの言葉がパンであることがまだわかっていない。