新井白石の『西洋紀聞』が著したことで知られる禁教下最後の宣教師シドティ。キリスト教宣教の許可を得ようと屋久島に上陸したのは、1708年10月10日から11日にかけての夜だったとされています。
シドティは1667年シチリアのパレルモ生まれ。教区司祭でしたが、叙階後法学学位を取るために行ったローマで日本の信者の殉教を知り、ナポリの大司教の座を惜しまず、日本への派遣を教皇クレメンス11世に願い出ます。許可が与えられたシドティは、中国に向かうトゥルノン枢機卿に随行してまずマニラへ。そこで日本人から日本語を学びながら、セミナリオの設立などに4年間尽力します。その後、日本へ。
マニラで覚えた日本語は役に立たず、ラテン語を知っているオランダ人の通訳ではじめて意思疎通。そして長崎から江戸に送られ、新井白石から尋問を受けます。シドティの見識と人間性に敬意を払いながらも、キリスト教の教えをまったく理解しない白石の警戒を解くには至らず、シドティはキリシタン屋敷に幽閉されます。しかし、その世話をした長助・はる夫婦に洗礼を授けたために牢に入れられ、最期を迎えたのが1714年、あるいは1715年とされています。
音信不通であったため、ヨーロッパにはさまざまな噂もあったようです―シドッチが処刑される時嵐が起こって中止に至らせ皇帝に受け容れられているなどと。それで、教皇もシドッチを教皇代理に任命していたようです。
2014年、キリシタン屋敷跡地から人骨が発掘され、調査の結果、2016年、シドティのものと確認されました(それに基づいて復顔像も作られています。書物の表紙画像を参照)。
今年、初の学術的伝記『ジョバンニ・バティスタ・シドティ―使命に殉じた禁教下最後の宣教師』(教文館)の日本語訳版が刊行されました。著者であるマリオ・トルチヴィア神父(パレルモ教区司祭)はシドティと夫婦の列聖調査を請願しています。上の画像は、シドティが持ち込んだ「親指の聖マリア」の複製画で、東京の国立博物館で見ることができます。その御絵と遺骨によってシドティはそれ以前のどの宣教師よりもリアルに感じられます。
理解できない教えに夫婦が帰依したことは白石にはまさに邪教のゆえんと思われたことでしょう。しかし、見方を変えれば、幕府に支配され自由さえ奪われている自分たちにも神の愛の眼差しが注がれているという教えこそ二人にとっては死をも賭する価値のあるものだったと想像できます。
現代の私たちは多くの場合、多少の世俗的知識を身につけある範囲で一種の権力を行使でき、ミニ「白石」のように振る舞うこともできます。けれども、どんな人も最終的には無力です。自分で望んだわけでもないのに、無力な赤ん坊として生まれ、若い人も年をとり、多くの場合病気になり、そうでなくても死を避けることはできず、死んだらどうなるかもわかりません。その根本的な現実を見つめるなら、人間に命を与え人間を愛し永遠の命に招く神の声が心に届く瞬間が来るかもしれません。
私たちはシドティのように長い船旅をする必要もなければ、知らない言葉と一から取り組む必要もありません。けれども、その瞬間のために、この特別月間に限らず祈り用意していたいです。