王であるキリストの主日は1925年に定められた祭日。当時は第一次世界大戦が終わったばかり。第一次世界大戦は日本では数百人の死者にとどまったが、西洋にとっては歴史を変える大きな戦争だった。1915年から1918年までの死者は約1700万人。戦後も、戦争の影響による貧困や病気など数々の問題のために約6000万人が亡くなり、ファシズム・ナチズム・共産主義の台頭、植民地の自立化が起こった。当時の教皇ピオ11世はこうした動きに抗して、王であるキリストの祭日を定めた。
「王であるキリスト」は言葉こそ新しかったが、聖書に深く根ざすものであり、カトリックの世界に次々と広がり、王であるキリストの名前をもつ修道会・団体・学校・大学が多数生まれ、プロテスタントの教会にも受容された。第二バチカン公会議の典礼刷新後、この祭日は典礼年の最後の主日に置かれた。
ふつう何かが終わる時、どんちゃん騒ぎで終わるもの。たとえば何かの集まりがあったら、最後に歌を歌ったり。けれども、不思議なことに、典礼年の最後の主日の今日、教会が福音書の箇所として選んだのは心の奥深くに響く柔和なテーマだ。
今日の第一朗読では、王という言葉がダビデに使われている。ユダヤ人たちは、救い主である王を待っていたが、彼らの感覚は世俗的で、彼らが考えていたのは、武力を振るって敵を倒し、金の王座に座って他の王にまさる王であった。
今日の福音書の箇所で私たちは、そういう期待に対しての神様の応答を味わうことができる。今日の箇所として選ばれたルカの箇所は、マタイやマルコと少し異なり、ヨハネとも少し異なるところがある。それはルカが挿入する3つのイメージだ。
1.今日の箇所の直前に書かれているが、「民衆は立って見つめていた」(35節)。ルカは弱い人たちに関心があるから、イエスが十字架につけられても、権力者に振り回され、何もできず、不安に感じながら見ているだけの民衆の姿をわざわざ書き記す。ルカは今日の箇所の後でも、イエスが十字架上で息を引きとった特別な場面を見て、心を打たれる民衆の姿を記している。「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」(48節)。それに対して、「(最高法院の)議員たち」とは、当時の権力者であり、イエスの死の責任者である。彼らはイエスを「あざ笑う」。彼らは敵であったイエスが自分たちの権力に負けて、死んでいくことを喜ぶ。
2.「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。注意して読まないと気づかないが、この言葉はイエスが公生活を送る前に荒野で悪魔から受けた三つの誘惑の一つに似ている。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』(4・9)。その時、イエスは誘惑に勝ち、悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」(4・13)。今がその時なのだ。荒野での誘惑のあと3年間イエスは、悪魔の誘惑と戦いつづけながら、神の癒しといつくしみと愛をいろいろな形で人々に布教したが、最後の晩餐の時に、悪魔がふたたび出てきてユダに入り(22・3)、そして今、この「議員たち」があざ笑うという形で悪魔がイエスを誘惑しているのだ。そして、今日の箇所では「議員たち」だけではなく、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言い、イエスといっしょに十字架にかけられた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と言う。それはイエスが受ける最後の誘惑――暴力に対して暴力をふるうこと、悪に対して悪で返すこと、人からやられたら復讐することへの誘惑だ。しかしながら、まずルカが、そして教会が今日私たちに言いたいのは、今日の第二朗読にあるように、宇宙の中心にあって、人と人、神と人のあいだに平和を打ち立てる王は、人間が考えるような王ではないということ。王であるキリストは暴力で敵を殺すのではなく、非暴力によって罪人に命を与える神なのだ。