待降節第2主日

「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3・11)

「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵
「エッサイの木」、象牙製、1200年ごろ、ルーブル美術館所蔵
 待降節第2主日に前面に出て来るのが預言者イザヤと洗礼者ヨハネ。この二人はまったく違った時代に生きた人物で、立場も違えばスタイルも違う。しかし、教会が今日この二人について伝えるのは、来るべきメシアがどういう方であるかを示すため。第一朗読のイザヤの預言によると、堕落したイスラエルにも倦まずに神が送るメシアは、世界を新しくし、人々のあいだに平和をもたらす方。福音朗読の洗礼者ヨハネによると、メシアとは私たちの複雑な生活を整理し、清める力のある方。そして、第二朗読のパウロによると、メシアは僕として仕える方だ。
<第一朗読>
 イザヤは、イスラエルの歴史で一番重要な預言者。今日読まれた11章の箇所は第一イザヤのうちインマヌエルの書と呼ばれる部分(7・1-11・9)に属していて、詩の形式で書かれている。この箇所で使われているのは二つの違った種類の比喩、植物の比喩と動物の比喩である。 
 植物の比喩とは、切り株(「エッサイの株」「その根」)だ。幹を切りとられ、乾燥し、命を失った枯れ木というシンボルは、ユダヤの王国が罪に陥っている状態を意味する。その状態から、突然、一つの芽が出る。命が絶えたところに、神の力によって命が吹き込まれる。人間が何もできないところに、神の憐れみによって救い主が送られる。パウロのテトスへの手紙では、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(2・11。また3・4、3・5)と言われる。イザヤがこの箇所で言っているのも、神の恵みであるメシアについてなのだ。
 若枝を揺らす風は、イザヤが霊について考えるきっかけとなる。風も霊もヘブライ語では「ルアー」という同じ言葉で呼ばれる。「その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊」(11・2)。ここでは、霊という言葉が4回使われている。これは、東西南北という4つの方向を意味し、全世界を表現する。つまり、イザヤが言うのは、救い主によって全世界に霊が注がれ、世界が新しくされるということ。イエスがはじめて故郷ナザレに戻った時、「主の霊がわたしの上におられる」(ルカ4・18)というイザヤの言葉は「今日…実現した」(ルカ4・21)と言ったことが思い出される。
 そして、私たちの心に染み入る美しい言葉が続く。その時、私たちの生活は、見た目や人の噂によって判断されるのではなく、正義と愛によって判断される。私たちの心を本当に知っている方、私たちを愛している方によって判断されるのだ。その方によって私たちは悪から救われ、その霊は私たちの弱さを助けに来る。
 この箇所の後半では、新しい創造のイメージが動物の比喩で描かれている。狼と子羊、豹と子山羊、若獅子と子牛といった、対となる動物は、不正義や束縛を伴う私たちの人間関係を意味する。人間の抱える問題には個人としての問題だけではなく家庭や社会の中での問題がある。当時と同じようにこんにちも、私たちは人間関係に悩み苦しんでいる。人間がいっしょに生きる苦労やつらさに神は憐れみを抱き、その関係を癒すためにメシアを送る。神は来るべきメシアによって、私たちの人間関係を正義と平等と平和の関係に直す。私たちはそれぞれの個性のために互いに敵となるが、新しい世界では自分の個性を保ちながらも、人とうまくつきあうことができる。一人一人の個性は神からの賜物であり、新しい世界ではその個性が生かされるのだ。
<福音朗読>
 今日の福音書の箇所には洗礼者ヨハネが出てくる。彼の特異な言葉遣いには、第一朗読にあったテーマが新しい形で出てくる。
 「荒れ野で宣べ伝え」。「荒れ野」はイスラエルの民にとって大きな意味がある場所。イスラエルの民は荒れ野で神と出会い、また誘惑を受けた。
 「天の国は近づいた」。「天の国」はマタイの特別な言葉だ。マタイは「神の国」と言う代わりに「天の国」と言う。
 「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」――それはエリヤの格好(列王記下1・8)だった。つまり洗礼者ヨハネは預言者の格好をしていたのだ。洗礼者ヨハネは旧約時代の最後の預言者として、強い魅力を放ち、メシアが来る直前であり大きな変化があることを力強い言葉で告げる。 
 「ヨルダン川で」。旧約時代、イスラエルの民がエジプトを出て約束の地に入ったのがヨルダン川だった。だから、ヨルダン川に戻るのは、新しく一から始めることを意味する。 
 「彼から洗礼を受けた」。注意すべきなのは、マタイが洗礼者ヨハネの洗礼について伝えるときに、罪の赦しという言葉を避けていること。ヨハネの洗礼には罪を赦す役割はない。マタイにとっては、人間の罪が赦されるのはイエスの十字架によってだけだから。ヨハネ自身も言う、「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は…聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
 マタイ福音書で洗礼者ヨハネの言葉に出て来るのは、厳しい裁判官としてのメシアのイメージだ。そこには、もみ殻と火という二つのおもしろい比喩がある。飛ばされ燃やされるもみ殻とは、私たちの生活の中にある無駄なもの、土台のないもののこと。詩編第1章にも、正しい人は「流れのほとりに植えられた木」だが、悪人は「風に吹き飛ばされるもみ殻」とある。ヨハネの言葉は厳しく思えるが、よく見れば、私たちを悪から清め解放するキリストの役割を示している。
<第二朗読>
 パウロの手紙の箇所は今日の朗読で一番感動するところ。ここで最初に言われているとおり、忍耐と慰め、希望を抱くことができるところだ。つまり、メシアは権力をふるう王として来るのではなく、僕として、「仕える者」として命を尽くし、自分の霊を注いで、平和を宣言する。それは、みんなが一つの心と一つの声でキリストの父である神に栄光を帰することができるためなのだ。こういったテーマはすべて、パウロの手紙に豊富に出てくる。
<まとめ>
 待降節はこのような聖書の流れの中に入るように勧められる時。キリストの言葉と命によって恵みを受け、キリストのようにお互いを受け入れ、お互いに耳を傾け、お互いに目を向ける時だ。来るキリストに心を広げる人だけ、「天の国」に入ることができる。

2017年の黙想の再掲載。