主の洗礼

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1・11)

フラ・アンジェリコ「ヨハネによるキリストの洗礼」(サン・マルコ修道院)
フラ・アンジェリコ「ヨハネによるキリストの洗礼」(サン・マルコ修道院)

 降誕節のあいだ、聖書のさまざまな箇所を読むことで私たちは、弱い赤ちゃんの姿で現れた人が誰かを少しずつ経験してきた。その赤ちゃんは救い主として神から送られた方、約束された方であるという信仰を強めることができた。今日、私たちの前に現れるのはそれから約30年後のイエスだ。彼は34歳頃だろうか。その間、彼が何をしたかを私たちは知らない。しかし、30年後の今日、たいへんなことが起こる。神が私たちを救うために動き始めたのだ。それは私たちにとって新しい生活の可能性が生まれたということだ。

 もっとも、今年B年に読まれるマルコ福音書は、もっとも簡潔で短い福音書であり、私たちが降誕節に黙想したイエスの誕生などについては何も書いていない。マルコ福音書は、洗礼から昇天までのイエスの旅を簡潔な仕方で私たちに伝える。その旅は、今日始まり、昇天のページまで続く。

 「そのころ」。『聖書と典礼』の朗読テキストの最初によく括弧に入れて「(そのとき)」と書かれているが、括弧に入れてあるのは原文にはないから。しかし、今日の9節の「そのころ」という言葉はそうではなく、とても大切な言葉だ。日本語に訳すなら、「とうとう」とか「ついに」とか。ずっと待っていたことが起こったという含みがある。ユダヤ人たちが何百年も前から待っていたことが実現したのだ。

 「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川で」。パレスチナの地図を思い浮かべると、ヨルダン川は北から南へ、ガリラヤ湖から死海へ流れているが、ナザレは北のガリラヤ湖のあたりだ。イエスはナザレを出てヨルダン川に沿って下っていき、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたところに着いたのだ。

 ヨハネは、長い間預言者が現れなかったのに、力強い言葉で回心を呼びかけ、ユダヤ人たちは、彼の言葉を聞き彼の洗礼を受けるために四方から集まった。ヨハネが洗礼を授けていたのはベタニアと呼ばれるところで、ユダヤ人にとって大切な場所だった。ユダヤ人がエジプトを脱出し、神から約束された土地に入ったとき、まさにそのベタニアでヨルダン川を渡ったからだ。つまり、ヨハネが言いたかったのは、原点に戻らなければならないということ。神が私たちに約束された土地に戻って、新しい生活を始めることが必要だというのだ。彼は、このようにたいへん厳しく力強く印象的なメッセージをもって、彼のところに来た人たちに洗礼を授けた。 

 「ヨハネから洗礼を受けられた」。マルコ福音書に書いていないが、マタイ福音書によると、ヨハネはイエスが現れたことに驚く、この人がなぜ洗礼を受けるのかと。洗礼を受けるのは罪びとであるからだが、この人は罪びとではなく神であって罪を犯すことがないとヨハネは知っている。だから、イエスに洗礼を授けることを断ろうとした。私たちもイエスの復活を知っているから、ヨハネと同じ疑問をもつ。しかし、マタイの福音書によると、イエスは、安心して洗礼を授けるようにヨハネに答える。イエスは罪びとではないが、私たちの罪をかぶって、洗礼を受けるのだ。

 「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて」。「裂ける」という特別な言葉がマルコ福音書に出てくるのは、この箇所と、イエスが十字架上で死んだ時に神殿のたれ幕が裂けたという箇所との二箇所だけで、とても大切な言葉だ。ユダヤ人の考えるところ、人間と神のあいだには7つの天があった。つまり、神は、人間から離れた遠い世界に住んでいて、人間とは違っている(第一朗読、「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり」)―そのことを示すためにユダヤ人たちは神と人間のあいだには7つの天があると考えたのだ。そしてラビたちの説明によると、一つの天から別の天にうつるには500年かかるということだった。つまり、神は考えられないほど遠いところにいると考えられていた。しかも、500年前から天が閉じられ、それ以降、神は語らず、預言者は現れず、ユダヤ人たちは神の言葉を聴くことができなくなっていた。しかし、今日マルコは言う、「天が裂けて」、二度と閉ざされることはないと。イエスが来ることによって、私たちがどんなに罪を犯したとしても、どんなに神から離れて悪いことをしたとしても、神は私たちから離れないことになる。イエスは私たちとともにいる神である。

  「“霊”が鳩のようにご自分に降ってくるのを、御覧になった」。神が天と地を創造したときに、霊が水の上に漂っていたことを思い起こさせる。つまり、創造について言われているのだ。マルコが言いたいのは、イエスによって私たちは癒され救われるだけでなく、新しく生まれることができるということ。イエスの洗礼によって、そしてイエスのうちに洗礼を受けることによって、私たちは病んだ心ではなく、新しい心を受けることができる。神ご自身の命が私たちの命になり、神の心が私たちの心になる。聖霊が私たちのうちに、次々と新しいことを、よい行いを起こす力になるのだ。

 「鳩のように」。鳩はとてもやさしい動物だ。鳩を蹴散らすことはしにくい。イエスの力は、罪びとを罰する旧約の力ではなく、神のいつくしみの力だ。その力は、私たちの罪をかぶって十字架上であがなうイエスによって示され、それによって私たちは救われる。今日の個所のヨハネの言葉によると、ヨハネが授けていた洗礼とは私たちキリスト者が受けた洗礼とは異なり、旧約聖書の洗礼であり、懺悔の洗礼だった。しかし、私たちは自分のよい行いのためではなく、イエスが示す神のいつくしみによって救われるのだ。

 「すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者』という声が、天から聞こえた」。今日の箇所の時点では、福音書を書いた人たちはまだ誰もイエスの弟子になっていなかった。イエスはこの内面的な体験について弟子たちに語っただろうと聖書学者は言う。イエス自身にとってはたいへんな出来事だった。人間の世界で言うなら、天皇の即位の礼にたとえられるだろうか。イエスが父なる神からメシアとして定められ、荘厳な形で私たちに送られるのが今日なのだ。

 

 ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネは自分の二人の弟子にイエスを示し、二人の弟子はイエスの後についていく。それから、イエスは新しい国に彼らを案内する。イエスの神は、遠いところにいる神ではなく、私たちのそばに歩いてくる神だ。だから、イエスの顔を見ることによって私たちは、完全ないつくしみである父なる神を見ることができる。今日の日曜日、イエスの洗礼という神秘を祝った私たちは、これから一年間、神について語るイエスの言葉と、神の愛を示すイエスの行いを見ながら、弟子としてイエスの後に歩いていく。