年間第6主日

イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)。

ジェームズ・ティソ「イエス、湖の辺りで人々に教える」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵 
ジェームズ・ティソ「イエス、湖の辺りで人々に教える」、1886―1894年、ブルックリン美術館所蔵 

 人は成長するために、ほめられることも叱られることも必要だ。ほめられることによって自信をもち、叱られることによって間違いに気づく。しかし、ほめることも叱ることも簡単ではない。お世辞のようにほめてばかりだと傲慢になり、逆に叱ってばかりだと自信を失ってしまう。そこには愛情がなければならない。今日のルカ福音書の箇所でイエスは愛情をこめてほめ、また叱ることで、弟子たちを教育しようとする。

 今日の第一朗読のエレミヤの預言の箇所と、答唱詩編(詩編1)は、2つの生き方を比べている。「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は」。「呪われよ」と言っても、藁人形を木に釘で打ち付けて災いや死を願うということではない。エレミヤが言おうとするのは、そのような生き方をする人は、岩盤の上に建てられていない家のように土台のない人生を送っているということ。それは、意味なく消えてしまう人生だ。そのような人をエレミヤは「荒れ地の裸の木」にたとえる。それは砂漠に生えて水分を得られずに枯れそうな木だ。それに対して、「水(川)のほとりに植えられた木」はいつでも根から水を吸い上げることができるから、枯れない。暖かくなると新しい葉を出し、季節になると果実をつける。正しい人はちょうどそのように神に根を下ろす生き方をしているのだ。

 エレミヤのその箇所を第一朗読として教会が選んだのは福音を理解させるためだ。今日の箇所には「不幸」という言葉が出てくるが、それは第一朗読の「呪われる」という言葉と同じで、ギリシア語の「ウアイ」だ。以前は新約聖書の日本語訳でも、呪いという訳語が使われたが、今は誤解を防ぐために「不幸」という訳語が使われている。ただし、欧語では「呪い」を意味する訳語が使われる。要するに、イエスが話そうとしているのは命と死のちがいだ。神の下で神に照らされて生きる人、あるいは神から離れて死んでいる人について話をするのだ。だから、生きるか死ぬか、私たちが命に向かっているか、それとも神から離れ死に向かっているか――それを考えるのが今日の福音箇所だ。また、「…は幸い」という表現はルカ福音書をはじめ新約聖書のさまざまな箇所に見られる。ルカ福音書では、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人はなんと幸いでしょう」(1・45)、「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(11・27)、「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(12・38)。またヨハネ福音書でも、「見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)とある。

 以下、今日の箇所を具体的に見ていく。

 「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」。 マタイ福音書が最初に伝えるイエスの教えは山の上での言葉だ。だから、「山上の説教」と呼ばれる。それに対して、ルカ福音書の並行箇所は「平地の説教」と呼ばれる。イスラエルの歴史を意識するマタイは、イエスが新しい掟を教える新しいモーセであることを理解させるために、イエスが弟子たちに教える舞台を「山の上」に設定した。それに対して、パウロといっしょに宣教したルカは、異邦人に関心があるから、ちがった舞台を設定するのだ。

 「大勢の弟子とおびただしい民衆が」。今日の場面はイエスが12使徒を選んだ直後だ。その前にはいくつかの奇跡を行っているから、人々はイエスに関心を抱いたのだろう。しかし、それだけではない。「ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から」。イスラエルを越えた異邦人の世界からも、たくさんの人が来たのだ。

 「イエスは目を上げ」。それは父なる神に向かってだ。「弟子たちを見て」。弟子たちとは私たち、教会のこと。今日の箇所は特に教会のための教えなのだ。

 続く箇所については、聖書学者などによるさまざまな研究があるが、いくつかの点についてだけ注意しておきたい。

 「今泣いている人々は幸いである」。イエスのこのような言葉を誤解してはならない。イエスは決して、涙や苦しみ、病気や失敗や追放がいいことだと言っているわけではない。イエスが言うのは、神がそのような人たちの味方だということ。彼は、私たちの成長と幸せを考えているのだ。私たちが神の子として生きることを考えて、こういう言葉を使うのだ。この点もに注意しなければならない。

 キリスト教について暗いイメージを抱く人がいる。また、洗礼を受けてキリスト者になると、清い生活を送らなければならないとか、ルールに縛られ自由がなくなると考える人がいる。しかし、それはキリスト教についての間違った理解だ。たとえば、修道者は結婚しないが、キリスト教において結婚生活が劣った生活であるわけではない。キリスト教の独身生活や他の犠牲は結婚の否定を意味しない。カトリックでは、秘跡を通じて神の恵みが私たちに注がれるが、結婚は7つの秘跡のうちの一つなのだ。パパ様の使徒的勧告『喜びに喜べ』ではその点が強調されている。

 「貧しい人々は幸いである」。特にルカは「貧しいあなたがた」と言うから、財産の所有自体が悪であるように思われる。しかし、福音書をよく読むと、イエスは富が悪だとは言っていない。大切なのは、もっているものの使い方だ。教父たちがよく言うように、禁欲だけなら異邦人も実践するが、キリスト者は単に禁欲を行うだけではなく、人とものを分かち合うのだ。人と分かち合う喜びのために、素朴な生活を送るのだ。旧約聖書にもアナウィンという言葉がある。アナウィンとは「貧しい」という意味。イスラエルが神から離れ掟を守らず異邦人のような生活を送っていた時代にも、神の言葉を忠実に行う少数の人々が残っていた。それがアナウィンであり、キリスト者の生き方の模範でもある。

 また次の二つのことに注意しなければならない。第一に、マタイ福音書の山上の説教や、ルカ福音書の今日のような箇所は、哲学の議論のための抽象的な言葉ではなく、日常生活の中で命に向かっていくための道案内だ。パパ様はおもしろい言葉を使って、今日の箇所のイエスの言葉は「キリスト者のナビゲーター」だと言う。神から示された道を間違わないようにしたい。

 第二に、イエスの弟子であり、キリスト者である私たちにとって、今日の箇所は生きたイエスの写真だ。今日の箇所にある「貧しい」「飢えている」「泣いている」といった言葉は、抽象的なことではなく、イエス自身だ。私たちキリスト者はイエスの生き方を見てイエスの真似をして生きるべきだ。神の子でありながら人間になったイエスの言葉や行い、感じ方や考え方を見ながら生きるのがキリスト者なのだ。キリスト者の生活の中心はイエスでなければならない。ダイヤモンドがきらめくように、柔和さやあわれみなどさまざまな光がイエスから出てくる。私たちは一人ひとりはイエスを真似ることができないが、教会の中でそれぞれのカリスマを合わせて共同体の心をもつことでイエスを真似ることができる。だから、今日の箇所の言葉は私たちにとって大切だ。

 初代教会では洗礼を受けるための7つの段階があり、ある段階で主の祈りを志願者に渡した。イエスは、そして教会は、父なる神に向かって神の子として語りかけるために、主の祈りを私たちに渡したのだ。そして、主の祈りが洗礼の前に荘厳に渡される時、今日の箇所の言葉も渡された。それはキリスト者特有の言葉であり態度である。それを生活の中で実現するのがキリスト者に与えられたすばらしい使命だ。 


2019年の黙想の再掲載。