復活節第6主日

聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる(福音朗読主題句 ヨハネ14・26より)

ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ  「使徒たちに別れを告げるキリスト」、1308―1311年、ドゥオーモ(シエナ大聖堂)美術館所蔵
ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ 「使徒たちに別れを告げるキリスト」、1308―1311年、ドゥオーモ(シエナ大聖堂)美術館所蔵
 今日は復活節第6主日だが、まだ復活節だということを私たちは忘れてしまいがちだ。神が近くに来ていろいろなことを私たちに経験させたにもかかわらず、私たちは世間のことに気を取られて復活祭を遠くに感じる危険が大きい。けれども、信者にとって大切なのは意識すること。イエスは今私たちのうちにいるのだ。福音書には、十字架にかけられたイエスが弟子たちのうちに生きていることがはっきりと書かれている。
 復活節第5主日と第6主日はヨハネ福音書13−15章から選ばれた箇所が読まれる。いずれも最後の晩餐の時のイエスの話だ。どの福音書も深いが、ヨハネ福音書は特別な言葉遣いだから、私たちは読むのに苦労する。しかも、教会のミサでは福音書が少しずつ読まれるが、私たちは先週の日曜日の箇所を忘れ、次の日曜日にどの箇所を読むかもわからなかったり。ミサで特定の箇所だけを読むと、理解に苦労する。今日の箇所で一体ヨハネがイエスについて何を言いたいか。私たちの頭だけではなく、私たちの全体に何かを経験させたいのだろうが、一体何を経験させたいか。ここでは、今日の箇所の全体について話すより、輝くダイヤモンドのように印象的な3つの点にしぼって説明したい。
1.23節から25節まで。「わたしを愛する人はわたしの言葉を守る」。この最初の言葉は有名な言葉だが、よく誤解される。この言葉を読んで私たちは自然に、掟を守ることでイエスへの愛を示さなければイエスから愛されないと考えてしまう。しかし、それは人間的な考え方だ。たとえば、父親が子どもに「もし何々するなら、愛するよ」と言うなら、それは条件つきの愛だ。しかし、この言葉をそのような意味で理解するなら、まったくの間違いだ。注意しなければならない。イエスが言うのは、あなたたちが掟を守って私への愛を示すなら私はあなたたちを愛するということではない。イエスが言うのは、私を愛するなら、私の言葉を守ることができるということ。そして、私たちはイエスに愛されたからこそ、イエスを愛しイエスの言葉を守ることができるのだ。つまり、福音書を読むときには、常識とはまったく逆の考え方をしなければならない。たとえば、ルカ福音書の有名なたとえ話、ファリサイ派の人と徴税人のたとえ話がそうだ。二人とも祈りのために神殿に上がったが、ファリサイ派の人は、自分は他の人とちがって十二分に掟を守るから、神から愛されていると考えた。イエスが言うのはそれは大間違いということ。それに対して、「神よ、私を憐れんでください」と胸を打ちながら祈った徴税人こそ、赦されて愛を受け家に帰った。今日の箇所のイエスの言葉もそういうことを言っている。これはキリスト者にとって大切な点であり、今日の箇所の第一のダイヤモンドだ。私たちはイエスから愛されその愛に答えようとするからこそ、イエスの新しい生き方に倣うことができ、家庭や社会でイエスの言葉を守ることができる。イエスから愛されてイエスを愛するのでない限り、私たちはどう生きるべきかがわからない。イエスの愛によって私たちはキリスト者としての信仰生活を送ることができるのだ。
 「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものでなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。父とイエスは一つ。父なる神の言葉はイエスによってわかる。イエスの顔の上に父なる神の光が輝いている。今日の箇所の前の箇所では、弟子の一人が「御父をお示しください」と言うと、イエスは答える、「わたしをわかっていないのか。私を見た人は父を見た」。キリスト者とはイエスの顔の上に神の輝きを見ることができた者だ。神は見えない。しかし、人間が目で見ることができない神がイエスによって人間のそばに来た。イエスの言葉、彼が送った生活、彼が示した愛の態度を見ることで神がどういう方かがわかる。先の日曜日の福音に「わたしがあなたがたを愛したように」とあったが、イエスの態度によって神がどういう方かがわかり、生きる意味もわかるのだ。だからこそ、キリスト者にとっては、掟よりイエスとの関係が大切なのだ。
 「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」。これは奇妙な言葉だが、ヨハネが最後の晩餐について書いたのは何十年も後のこと。すでにイエスは見えなくなっていた。だから、このような言葉は復活したイエスの言葉と言える。
 以上が第一のダイヤモンドだ。その前にとどまり、祈りの心をもって黙想してそのきらめきを楽しみたい。
2.「しかし」。話は変わる。「弁護者、すなわち父が私の名によってお遣わしになる聖霊があなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。今度は聖霊がテーマだ。弟子たちは、イエスが見えなくなることを察し不安に感じる。そこでイエスはその新しい状態を説明するのだ。イエスが使うのは弁護者という言葉だ。この言葉は裁判に関する言葉だ。
 ヨハネはきっと若いときに、イエスの裁判を経験しただろう。その不正な裁判はヨハネにとってショックであったにちがいない。だから、ヨハネの福音書には裁判に関わる言葉がいろいろ出てくる。
 こんにちの弁護士は報酬を受け取って他人の弁護をする職業だ。しかし、当時の弁護者は今とは違っていた。私たちは(間違いであったとしても)何かのことで訴えられ裁判にかけられることがある。それは人生の危機だ。その時、友だちと思っていた人たちも離れて、孤独に陥り、釈明しようとしても、誰も助けてくれなかったりする。こんにちの拘置所ではうつ病になる人が多いようだ。そして、妄想に襲われ、無実であっても自分に非があったかもしれないと考えたりする。ところが、古代世界では裁判に友人を連れて来ることが許された。日本語の「弁護者」という言葉は、自分のためになることを言ってくれる第三者を意味するが、ラテン語のadvocatusは呼ばれた人を意味する。訴えられた人は裁判に友だちを呼んで、隣に座ってもらうのだ。隣に友だちがいたら、気持ちも落ち着き助けられる。友だちはたとえ他のすべての人が離れて逃げたとしても、そばに来て味方して話してくれる。お金のためでなく、友だちとしてただで助けてくれる。イエスが聖霊を表現するために使う「弁護者」はそのような人のことを意味するのだ。
 「父が私の名によってお遣わしになる聖霊」。これはヨハネ独特の表現だ。ヨハネにとって復活節は50日ではなく1日だ。つまり、イエスは十字架上で復活した。ヨハネの福音書によると私たちは今その一日を過ごしているのだ。その一日の中で、イエスは死ぬ前に、最後に大きな叫びを上げて、息を引き渡した(日本語訳では「引き取る」となっているが、原文では「引き渡す」)。その息はふつう人が死ぬときに吐く息ではない。イエスは私たちのために悪と戦った戦いの最後に、自分のすべてを出し切って、私たちにその息をくれたのだ。その息は神の命であり聖霊だ。それによって罪人は立ち直ることができる。ちょうど春の風が吹くとき蕾が花開くように、イエスは死ぬ瞬間にその息を私たちに与え、私たちは新しい命に再生することができたのだ。
 ルカ福音書には不正な管理人のたとえ話がある(16・1-8)。管理人はあるときに訴えられ、主人に呼ばれて、会計の報告をするように言われる。彼を訴えたのは悪魔だ。神に造られた人間が滅びることを望むのが悪魔だから。悪魔は私たちを誘惑するだけではなく、私たちに嫉妬し、神の作品である私たちを滅ぼそうとするのだ。その時、イエスは自分の霊を私たちに送る。その霊は私たちを弁護し助けるのだ。
 ヨーロッパの中世にこのような神学的テーマを描いた絵がいろいろな教会にある。人は死ぬと天秤で魂が図られる。悪魔はその人を地獄に落とすために、一方の皿にぶら下がる。ところが、反対の皿に、マリアが抱いたイエスが足を入れるから、その人は天国に入ることができる。このような視覚的な表現で中世の庶民が表現したことが今日の箇所では言われている。私たちは罪人だから、自分の魂を何度も悪くするが、イエスは私たちを救うために自分の命を捧げてくださった。その命が聖霊だ。
 「あなたがたにすべてのことを教え」。聖霊は教える。ただし、外面的な教師として命令するのではなく、私たちのうちに住んで、何がいいか悪いかをうちから私たちに教えるのだ。それはすばらしいことだ。つまり、イエスは聖霊を送ることによって私たちのものの感じ方を直すのだ。私たちは毎日の生活の中で何がいいか何が悪いかよくわからない。いい匂いを感じなかったり、いい音が聞こえないというようなものだ。ところが、聖霊を送ることによってイエスは私たちを深いところで癒やしてくださる。だから、私たちは神に祈り、神と語り合うことができる。祈りと言っても、外から無理に押し付けられた祈りではなく、私たちの心の中から起こる祈りだ。パウロも言うように、その霊がなければ、私たちは父なる神に向かって子どもとして「アッバ」「父よ」「お父さん」ということもできないのだ。そして、「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。私たちは聖書を読んでも忘れてしまうことが多い。しかし、思い出させるのが聖霊の働きだ。私たちは聖書の言葉の重みもわからないことが多いが、聖霊はその言葉に重みがあることを感じさせる。
3.「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」。平和とは戦争と戦争のあいだの休止期間ではない。北朝鮮とアメリカの戦力の均衡を維持することが平和ではない。イエスが私たちにくださる平和は安定する平和であり、人間として生きるための平和なのだ。

(画像は、フリッツ・フォン・ウーデ「最後の晩餐」、1886年、シュトゥットガルト州立美術館)


2019年の黙想の再掲載。