今週の聖句と黙想

2017年

4月

23日

復活節第2主日

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)。

ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
ペーター・パウル・ルーベンス「聖トマスの不信」、1577年、アントワープ王立美術館所蔵
 復活節第二主日は、第一・第二朗読の箇所は年によって変わるが、福音朗読の箇所は毎年同じ。ヨハネ福音書から、復活のイエスが弟子たちに現れる箇所が読まれる(去年の黙想のページはこちら)。ただし、「現れる」という言葉はこの箇所には出て来ていない。使われるのは「立つ」と言う言葉(「イエスが来て真ん中に立ち」)。「現れる」という言葉はヴィジョンを連想させ、実際福音書には復活したイエスの体の特徴がいろいろと記されているが、福音書記者が伝えたいのはヴィジョンではなくリアルな現存だ。それに対して、「立つ」とは生きた者として、死に対する勝利者として教会の中に現存するということ。 
 人間の常識で言うと、他の人の態度に傷つけられたら、仕返しするところだ。そのチャンスを掴んで人を苦しめるために使う。みんなの前でその人の罪を暴露し叱って恥をかかせたり、仲間外れにしたりする。それに対して、イエスがトマスに限らず弟子たちのところに来る時は、そういう気持ちが一切なく、愛と赦しと癒しだけがある――そもそも十字架上でそうだったように。これは非常に感動させるところだ。イエスは自分の体面ではなく、弟子たちのことを心配して、彼らに会いに行く。彼らは恐くて隠れているが、イエスは探しに行くのだ。イエスは神として復活したから。神は罪人を見捨てることをせず、麻痺状態のままに残さず、希望を消さず、自分の家(教会共同体)から追い出すことをしない。神は、人が立ち直るために導き助けるのだ。 
 復活を語る時、二つの言葉がよく出て来る。「目覚める」と「起き上がる(立ち上がる)」。この二つの言葉は私たちの日常生活からとられた言葉で、私たちの朝の行動にあてはまる。私たちは朝になると目が覚める。弟子たちは目覚めて、イエスに気づいた。また私たちは朝ベッドから起き上がる。イエスは御父によって死から起き上がらされた。 
 イエスが来たとき、弟子たちは喜んだが、喜びはヨハネ福音書を貫く大きなテーマだ。第二朗読のペトロの第一の手紙にも喜びのテーマが出て来る。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。

 トマスはどういう人だったか。「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」。トマスは教会に対して不信を抱いていた。彼は、イエスの死だけではなく、他の弟子たちの足りなさにショックを受けていたかもしれない。トマス自身は、外に出ることを恐れなかった。実際、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとはしたが、その段階では弟子たちを殺したくはなかったようだ。イエスがラザロのところに行こうとした時、他の弟子たちは、殺される危険があると反対したが、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った人だ。彼は無関心というより、自信と勇気のある人だった。だからこそ、イエスに会う最初のチャンスを逃したのだ。でも、イエスはトマスを知り、トマスのために来る。 

 そして、トマスの場合も他の弟子たちの場合と同じだ。イエスの目は私たちの罪の先を見る。神は私たちがどんな罪をおかしたかよりも、私たちがこれからどんな聖人になるかに関心がある。イエスはマグダラのマリアについて「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7・47)と言った。神が何もできないのは生ぬるさに対してだ。聖アウグスティヌスも「異端者になるのは偉大な人だけだ」(『詩編註解』第124章第5節)と言う。平凡な罪しか犯さない人は平凡な人にしかならない。逆に、大きな罪人は大きな聖人になる可能性がある。トマスは他の弟子と同じようにイエスを見捨てたが、彼の中にはイエスに対しての愛が燃えていた。彼は復活したイエスの前で、ヨハネ福音書で一番すばらしい信仰と愛の告白をした。「わたしの主、わたしの神よ」。トマスについては何も知られていないが、言い伝えによると、シリア、ペルシアなどローマ帝国の外にまで出て、インドにまで行って宣教したと言う。インドの教会は使徒トマスに遡るのだ。 
 私たちもイエスへの愛を表現するにはトマスの言葉を使うしかない――ミサの聖変化の時、また聖体の前で「わたしの主、わたしの神よ」。

過去の聖句と黙想はこちら

トピック

2017年

4月

13日

聖木曜日

ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
ローリー・リソンビー「洗い」、2006年(http://www.laurielisonbee.com/)
 聖週間、そして過ぎ越しの聖なる三日間は私たちキリスト信者にとって一年で一番大切な時。そして、(一般的な意味ではなく深い神学的な意味で)「美しい」三日間だ。この三日間で私たちは、神について、そして神が遣わされたキリストについて一番すばらしいことを知り、それを知って喜びを感じる。そして、それによって私たちの生活も変わる。 
 ただし注意しなければならないのは、今日の第一朗読に「記念」という言葉があったが、過ぎ越しの三日間を記念すると言っても、何もなかったかのようにゼロに戻るわけではない。私たちはイエスが復活したという立場から記念するのだ。そして、ヨハネはその福音書で「主」という言葉をよく使うが、私たちはイエスを記念するだけではなく、主を記念する。私たちは、イエスがキリストであり、神から送られた神の子であるという体験をした上で聖週間に入るのだ。 
 イエスの最後の晩餐が行われたのは夜。「夜であった」(ヨハネ13・30)。ちょうど主の晩餐のミサが行われる時だ。この夜、私たちは何がわかるか。それは私たちが愛されていること。この夜、私たちは愛されているということを深く体験する。ヨハネ福音書にはこのテーマがさまざまな箇所に出て来る。例えば、イエスはニコデモに向かって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と言う。イエスの生涯全体が愛だった。そして、この夜、このテーマがもう一度強く出て来る。 
 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。イエスはカナの婚礼の時は「わたしの時はまだ来ていません」と言ったが、その時がようやく来たのだ。この夜、イエスがどういう方で私たちに対してどんなことをしてくださるか、私たちがどうなるかがわかる時、そして私たちが救われる時が来たのだ。そして、その時、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」。この日本語訳はよくできた訳と言える。例えば夫婦は死に分かれるまで愛することを結婚式で誓うが、イエスが言うのはそういうことではない。イエスは私たちを愛するため、神である自分の限界にまで至ったのだ。その先には何もない――神の外に何もなく混沌があるだけなのと同じように。神は私たちを愛する、自分を忘れ自分を捨てるほどに。この愛以上の愛はない。イエスは私たちをそれほどの愛で愛してくださったのだ。何とすばらしいことか。このことは新約聖書のいろいろな箇所に書いてある。聖なる過ぎ越しの三日間、その愛の恵みを浴びたい。教会に来て典礼に参加することが勧められる。それが無理なら家で聖書を読み祈りたい。それが私たちの生活にとって一番大事なことだ。それを失うのはもったいない。神聖な愛を粗末にすることだ。キリストの霊の力、聖霊の力に頼って三日間を大切にしたい。

 イエスはその夜捕まえられて苦しみを受け殺されると知っている。知った上で、弟子を見る。3年間いろいろな形で育てた弟子を一人一人見て、愛する。その弟子の強いところ、弱いところ、その弟子の罪まで見る。その弟子の一人から裏切られることも知っている。けれども、ユダも愛されている。イエスはユダに向かって「友」(マタイ26・50)、つまり愛する者と呼びかける。この夜、イエスは私たちを一人ずつ同じ目で見る。同じまなざしで私たちは愛される。私たちのいいところ弱いところ。誰も知らないこと、罪までイエスは知って、私たちを見て慈しむ。このことをヨハネはまず第一に私たちに伝えるのだ。

 この状況で、第二朗読のパウロが書いている聖体の秘跡が制定される。なぜなら、イエスは弟子から離れなければならないと知るが、離れたくないから。イエスが行ってしまって私たちに見えなくなっても、私たちのあいだに残るためにイエスが残した最後のしるしが聖体なのだ。きっと福音書記者ヨハネも驚いたにちがいない。イエスが使った過ぎ越しの祈りの言葉はヨハネも幼い頃から知っていたはずだが、「私の体」「私の血」とイエスが言ったパンとぶどう酒はイエスが私たちのために残した特別なしるしだ。私たちもヨハネと同じように、驚きの心で聖体を受けたい。その夜、弟子たちは聖体がまだわからず、イエスがオリーブの園で悩み祈っても寝てしまい、イエスが捕えられると逃げたり裏切ったりした。聖体をわからせるために、イエスはもう一つのしるしを残した。それはヨハネ福音書だけに書かれているしるし、足を洗うことだ。(ヨハネは聖体については他の福音記者とは違い、受難の前の箇所ではなく第6章で書いている。) 
 洗足式については一つだけ注意しておきたい。教会が洗足式を行う時にはかならず、貧しい人と連帯する。イエスは貧しい者だから、社会の中で一番貧しい人に向けられる愛がイエスを本当に記念することだ。そして、イエスに出会い、イエスに愛される生活を送るためには、互いに愛し合うことがなければならない。

今後の主な予定

4月30日(日) 14:00~

京都教区新信者のミサ(@河原町教会)

5月7日(日) 

大塚乾隆神父様、当教会での初ミサ

5月14日(日) 15:00~(開場は14:30)

第32回聖ヴィアトール教会コンサート

第32回コンサートちらし.pdf
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5月28日(日)

洛北ブロック大会(@衣笠教会)

6月4日(日) 14:30~

京都教区合同堅信式(@河原町教会)

日時変更とお休み

日曜学校はこれまで第1、3、4日曜日に行っておりましたが、第1、2、3日曜日に行うことに変更になっています。また、第2日曜日はウィリアム神父様がご指導くださることになりました。

カトリック教会のニュース

名誉教皇ベネディクト16世、90歳に

信条の楽譜発表

 ニケア・コンスタンチノープル信条と使徒信条の楽譜が発表されました。詳しくはこちらを御覧ください。

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