今週の聖句と黙想

2018年

12月

09日

待降節第2主日

人は皆、神の救いを仰ぎ見る。(ルカ3・6より)

ピーテル・ブリューゲル「洗礼者聖ヨハネの説教」、1566年、ブタペスト国立西洋美術館
ピーテル・ブリューゲル「洗礼者聖ヨハネの説教」、1566年、ブタペスト国立西洋美術館

 今日と次の日曜日の福音書の主人公は洗礼者ヨハネ。ルカはヨハネについて書くに先立ち、ローマ皇帝、ユダヤの総督、ガリラヤの領主、大祭司など権力者の名前を並べる。それはヨハネとイエスの物語が虚構ではなく歴史的な事実であると示すためだけではない。そこには、最近の聖書学者がルカ福音書について言うところのユーモアが典型的な形で現れている。人間の常識では、歴史を動かすのは権力者であり、何かを知りたければ権力者に接触するのがよい。三人の博士たちもイエスを探してベツレヘムに着いたときヘロデ王のところに行った。しかし、それは間違いだとルカは言う。実際に神の言葉が降ったのは、誰も知らない砂漠の中にいた、誰も知らないヨハネである。それが神のやり方である。お告げを受けたマリアもそう。神の啓示、神の恵みを受ける人たちは人間の見方ではつまらない人たちだ。神はそのすばらしいわざのために一番弱い者を選ぶ。神が愛するのは小ささであり、謙遜なのだ。

 洗礼者ヨハネは、聖書を読むと男性的で荒っぽく野生な生活を送っているイメージが強いが、彼は何よりも神のそばにいる喜びを感じた人物である。身ごもったマリアがエリサベトのところに行ったとき、エリサベトの胎内でヨハネがキリストが近づいたことを喜び踊ったほどに。そのヨハネの喜びを私たちも知っている。それは洗礼の時に感じた喜び、キリストに出会った喜びである。神から罪を赦された喜び、深い祈りの時の神秘主義者の喜び――それがヨハネの喜びなのだ。

 続くイザヤ預言書の引用で言われているのは「道」についてである。「道」とは神と私たちのあいだの道、人と人とのあいだの道であり、両側から歩み寄れる道である。イザヤが言うのは、神はあなたたちの方に歩きたい、あなたたちに神の方に歩いてほしいということ。信仰とはそのコミュニケーションである。時々行いや祈りをするのではなく、いっしょに生きること。神とのあいだに、兄弟と兄弟のあいだに互いに関係をもつこと、成長すること、愛によって結ばれることである。
 その道をふさぐ三つの邪魔がある。第一に「谷」。例えば、塹壕。戦場で兵士は溝を掘って、敵に見られないようにその中を歩く。つまり谷とは隠れ場である。私たちは時に神との関係が難しくなり、神から自分を隠して、神が自分に関わらないようにするときがある。例えば、聖書を読んで、その言葉が私たちの生活に深く関わる時に表面的に読んで済ましたり、良心は私たちの中で響く神の声なのに悪かったことに対して言い訳を考えたりなど。私たちは神の恵みから触られないために穴を作る。回心はそのような谷を埋めることであり、コミュニケーションを新しくすることである。「神の救い」、癒しは、私たちが神から隠れる可能性を私たちの生活から取り除く。
 第二に「山と丘」。例えば、京都に住む人と大津に住む人の間には比叡山があり、現在では車で30分で行けるものの、最終的に邪魔である。罪も同じように、神と私たちのコミュニケーションを邪魔する。傲慢や疑い、軽蔑、エゴ、嫉妬も山のように兄弟同士のコミュニケーションを邪魔する。キリストがもってくる神の癒しは、この山を低くすること。私たちは罪のために死んでいたのに、キリストの復活によって新しい命に創造され、父なる神に向かって父と呼ぶことができる権利を新しく与えられた。
 第三に「でこぼこ」。これは私たちの内面的な生活であり、心の状態である。例えば私たちは洗礼を受けて教会に通うが、キリストの価値観は半分で、残りの半分はテレビなど社会の価値観に影響され、生活全体が洗礼を受けたことになっていない。または道徳的にある時は一生懸命やり、ある時は負けて神から隔たる。イザヤが言うのは、主が来られる時に私たちはその状態から癒される、今その時が来たと。
 待降節はもうすぐキリストが生まれるという時。神の恵みを受けるための努力が勧められている。できるだけその時間を大切にしたい。神の言葉に親しくなり、よい告解をし、お互いに赦し合って、新しいコミュニケーションを互いのあいだと神とのあいだに交わせるように。

トピック

2018年

12月

08日

くすぐりの聖母

マサッチョ「くすぐりの聖母(カッシーニの聖母)」、1426―27年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
マサッチョ「くすぐりの聖母(カッシーニの聖母)」、1426―27年、ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

 待降節は他のどの季節よりもマリア中心の季節。それは、数週間後にマリアが母としてイエスを生むからだけではなく、教会も母として、信仰の模範としてマリアと同じ心をもつから。マリアとイエス、教会とイエスの関係は神学のテーマであるだけではなく、考えられないほどさまざまな作品をこの世界に生み出したー美術、音楽、詩などの文学、ロザリオなどの信心業から料理に至るまで。教会堂も美術館も個人の住宅もそのような宝物に溢れている。

 教会の典礼には、待降節第4主日(A年B年C年の黙想を参照)と主の降誕の祭日(夜半)の他にも、母マリアに関係する祭日がある。たとえば、12月8日の無原罪の聖マリアの祭日と、1月1日の神の母聖マリアの祭日(こちらを参照)だ。

 このサイトではこれまでにも、マリアを描いたさまざまな絵画を掲載してきたが、今年は、とても美しいがきわめて珍しい絵画を紹介する。描いたのは、その本名よりあだ名で知られるルネッサンスの有名な画家マサッチオ(1401―1428)。数奇な歴史をもつ絵画だ。現在フィレンツェのウフィツィ美術館が所有しているが、ナチスの時代にイタリアから盗まれ、戦後ドイツから返却された際に、マサッチオのものと専門家が鑑定した。

 一般に聖母画はやさしいイメージで、りんごや小鳥などの小道具によって神学的な意味を付与されるが、この絵画には珍しい特徴がある。教会堂で使われる正式なものではなかったから、少し崩れた日常的なイメージだ。マリアは2本の指を伸ばし愛情深く幼子イエスを祝福している様子だ。しかし、祝福は赤ちゃんを笑わせる仕草に変わる。そのために、この絵は一般に、カッシーニという発注者に由来する正式な表題Madonna del Cassini(カッシーニの聖母)より、Madonna del solleticoという名前で親しまれている。イタリア語のソレティコは、英語でティクリンに相当し、くすぐりという意味。それほどのやさしさを示すマリアなのだ。

 くすぐりの聖母を描いた絵画はこの絵以外には、ラファエロが描いたフォリーニョの聖母(こちらを参照)しかないほど、珍しい絵画だ。マリアはイエスがかわいい子だから、笑わせようとしてくすぐる。くすぐられたイエスは微笑み、マリアの腕を小さな手でつかむ。きわめてリアルな描写だ。

 しかし、注意すべきところがある。それは、他の同様の聖母画を理解するために大切なことだ。古典的な美術では、マリアの顔は真面目で、笑わない。絵を見て祈り観想する人に画家が言いたいのは、イエスはマリアの子であるだけではなく、私たちのために十字架の上で死ぬために来られた方だということ。マリアはシメオンから言われる。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2・35)。そのことはこの絵の2つの細部からも伺われる。一つは、イエスの首の周りの黒い鎖。ロザリオに見える。もう一つは、イエスの肩に描かれた、珊瑚のように赤い十字架だ。イエスの血を連想させる。こうした細部は、降誕祭に生まれるマリアの子がただの人間ではなく、私たちのために生まれる神の子だということを予感させる。


 降誕祭の準備のために、マリアへの2つの祈りを紹介したいと思います。最初は、奇跡が認められて今度列福されるアルゼンチンのエドゥアルド・ピロニオ枢機卿の祈り、次は、リジューの聖テレーズの祈りです。

小さな者たちの母よ

 

貧しい人たちと小さな者たち、

何ももっていない人たちと

誰からも理解されず孤独に苦しむ人たちの

母であるマリアよ、

主をくださったことに感謝します。

私たちは幸せに思い、

その喜びを多くの人たちに伝えたいです。

憎しみ合っている人たちに叫びたい、

「神は父であり、私たちを愛している」と。

恐れている人たちに叫びたい、「恐れるな」と。

疲れている人たちに叫びたい、

「前に進め、神がともに歩んでくださる」と。

 

途上にある人たちの母よ、私たちに教えて下さい、

あなたのように、受け入れらず迎え入れられなくても、

貧しく小さくあること、

野望を抱かないこと、

自分を忘れ人に尽くすこと、

平和と希望の使者であることを。

 

暴力の代わりに愛を満ちあふれますように。

人と人のあいだ、国と国のあいだに

正義がありますように。

真理と正義と愛の中に

キリストのまことの平和が生まれますように。

私たちがキリストを証しする教会でありますように。

 

(エドゥアルド・ピロニオ枢機卿)

私はあなたのもとに逃げ込みます

 

ああ、恵みあふれるおとめよ、

わたしは知っています、

あなたはナザレで貧しい生活を送っていましたが、

それ以上のことを望みませんでした。

選ばれた人たちの元后(きさき)よ、

法悦も奇跡も他の特別な出来事も、

あなたの生活を彩ることはありませんでした。

 

謙遜な人たち、「小さな者たち」は

地上にたくさんいます。

彼らは恐れることなく

あなたに目を向けることができます。

あなたは、彼らといっしょに道を歩み、

彼らを天国に導く比類のない母。

 

ああ、愛する母よ、

私はこのつらい追放の地で、あなたとともに生活し

日々あなたに従うことを望みます。

あなたの観想に逃げ込むと、

あなたの心には深い愛があります。

私のあらゆる不安は、

泣くことと喜ぶことを教える

あなたの母のまなざしの下に消え失せるのです。

 

(リジューのテレーズ)


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今後の主な予定

12月24(月) 19:00~

主の降誕 夜半のミサ

(19:15~ キャンドルサービス)

12月25日(火) 10:00~

主の降誕 日中のミサ

(ミサ後、パーティ)

日時変更とお休み

事務室の在室時間は現在のところ以下の通りです。なるべくこの時間帯に来室・連絡下さい

 

月・火・水、金 10:00~12:00

 

*変更の可能性があるため、来室の際には電話(075―724―6623)で確認願います。

聖体顕示は金曜日18:30〜19:00となっています。

カトリック教会のニュース

 当教会でいっしょにミサに与っていた霧島彬(鹿児島教区助祭)さんが司祭に叙階されます。叙階式は12月29日(土)午前 11時より鹿児島カテドラル・ザビエル教会で中野裕明鹿児島教区司教の司式により行われます。よい準備ができるように霧島さんのために祈りましょう。


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