今週の聖句と黙想

2018年

10月

14日

年間第28主日

金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

(マルコ10・25)

Boris Debic, Camel in Petra Jordan, Creative Commons
Boris Debic, Camel in Petra Jordan, Creative Commons

  私たちはみな幸福を求めている。しかし、何が幸せかはなかなかわからない。わかったとしても、それに命をかけるのは難しい。その結果、幸せになる好機を失う危険がある。今日の福音書の箇所の主人公はそういう人だったかもしれない。

 今日の箇所は3つに分けられる。1.イエスとその人。2.イエスと弟子たち。3.ペトロとイエス。
 「イエスが旅に出ようとされると、ある人が」。マルコはその人の名前を書いていない。福音書で人の名前が書かれていないのは、私たちが自分のことを考えるためとよく言われる。その人は、自分を大きく見せるため、富と名前、評判と宗教的な名声にすべてをかけた人だ。もしかしたら、生まれてこのかた、愛された経験がなかったかもしれない。自分には愛される価値がないと思い込んで、外面的に金持ちになって人の注意を引こうとしているのかもしれない。その結果、自分の幸せは富だと決めつけているが、内面では不幸せで寂しい。イエスの評判に惹かれてイエスのところに行く。もしかしたら幸せの秘密を教えてくれるかもしれないと考えるのだ。

 マルコ福音書には注意すべき2つの細部がある。「走り寄って、ひざまずいて」。ユダヤ人にとって走るのは賢明ではなかった。偉い人は走らない。マルコ福音書では二人だけがその態度をとる。悪霊に取りつかれたゲラサの人(「走り寄って」、5・6)と重い皮膚病を患っている人(「ひざまずいて」、1・40)だ。ただし、その二人は心も体も病気だったが、今日の箇所の人の病気は深いところに隠れていて見えない。幸せを求めているが、なかなかうまく行かない人という印象だ。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。「永遠の命」は死後の生命ではない。ユダヤ人は死後の生命にあまり関心を抱かなかった。「永遠の命」とは現在のことであり、こんにちの言葉でいえば、幸せとか生きる意味のことだ。その人は深い悩みをもっているようだ。
 イエスはユダヤ人の常識から話を始める。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」。イエスは十戒のうち、神についての掟を無視して、隣人についての5つを引用する。そこにも注意すべきことがある。イエスは「隣人の妻を欲してはいけない」を避ける。先行する箇所のイエスの言葉によると、女性にも男性と同じ価値があるからだ。その代わりに、「奪い取るな」を入れる。この掟は十戒になく、申命記24・14から来る。「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない」。この掟をイエスが入れるのは、その人が金持ちとわかっていて、その富が他の人から奪い取った不正なものであるかもしれないからだ。
 「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」。その人は、熱心なユダヤ人だと自慢するのだ。何かファリサイ派のような響きがある。彼らは、ユダヤ人に生まれたことを自慢していた。
 「イエスは彼を見つめ」。これには注目すべきだ。その人の心の奥深くを見るのだ。「慈しんで」。この言葉にも注意が必要だ。慈しみ、愛という言葉を聞くと、現代の私たちは感情と考えるが、福音書ではそういう意味ではない。「イエスは彼を見つめ」。イエスは神の目で、その人にある可能性を見る。創造主である神として、罪人の中に聖人になる可能性を見るのだ。だから、イエスの愛は最終的に憐れみだ。イエスは自分が創造したものを神聖な目で見て、その真実を明るみに出す。「あなたに欠けているものが一つある」。あなたに富も名誉もあり、自分の民族にも地位にも満足しているが、足りないことがある。それはたくさんの中の一つではなく、根本的なことだ。
 「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。ここには3つの動詞がある。それはいずれも有名な言葉だ。それをすれば、虫に食われない宝物を天に「積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。その人は何かの祈りなど特別なことを教えてもらうつもりだっただろう。しかし、不幸の深い原因が指摘された。人に自分をよく見せようと防護壁を作ることが生きる邪魔になっていたのだ。ザアカイと同じだ。ザアカイは背が低くて人から見下げられていたが、金持ちになれば見上げられると考えた。今日の箇所の人も、自分の努力、自分の宗教的な熱心さを褒めてもらえると思っていたのに、それが幻だと突きつけられたのだ。

 イエスは新しい世界を彼に開こうとする。神は人間の努力を見るのではなく、心の態度を見る。何よりも大切なのは、自分が与えることではなく、神の賜物をいただくこと。神を動かすのは、私たちの力ではなく、私たちの弱さであり、神の愛を受け入れる態度だ。マルコは今日の箇所の直前に、イエスと子どもたちのエピソードを記していた。私たちの弱さは神にとって大切だ。
 悪霊に取りつかれたゲラサの人は「走り寄って」、重い皮膚病を患っている人は「ひざまずいて」イエスに癒やされたが、今日の箇所の人はそうではない。イエスの言葉を聞いて、その人は「気を落とし、悲しみながら立ち去った」。その気持ちは癒やされなかった。大金持ちだったからだ。今日の箇所のメッセージはここにある。富には他の罪や弱さより危険なところがあるのだ。
 「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。イエスは金持ちを憎んでいるわけではない。イエスの友には金持ちもいた。金持ちはいろいろな方法でイエスに協力した。住む家や食べ物を提供し、いっしょに旅をした。イエスの理想は貧しさでも空腹でもなく、神から愛されている者同士がきょうだいとして分かち合うこと。福音書には、レビ、ザアカイ、スザンナ、ヨハンナ、ラザロなど、そのような人たちの名前が出ている。彼らはみなイエスの言葉に従って、家に人を受け入れたり(ホスピタリティ)、貧しい人たちを助けたりした。そのような例は、例えばパウロを援助した女性リディア(使徒言行録16・14―15)をはじめ教会の歴史にも数多くある。イエスの弟子であるキリスト者は、神からいただいたものをみなと分かち合う時に幸せを感じる。それは物質的な富だけではなく、精神的な富、さまざまな神の賜物にあてはまる。
 イエスが使った有名な比喩では、人と分かち合いができない金持ちは、大きな荷物を積んで砂漠を渡るらくだが狭い扉にひっかかって通れないようなものだ。らくだは大きく醜く汚くて臭く、ユダヤ人には汚れた動物だった。「針の穴を通る」。ある解釈者たちは、エルサレムの城壁にいくつもの門があり、そのうちの一つはとても狭く、「針の穴」と呼ばれていたと言うが真実はわからない。

 大切なのは、イエスの厳しい言葉が弟子を行者にするためではないということ。イエスが教えようとするのは、新しい家族になる道だ。そこにはポジティブな面がある。「人間にできることではないが、神にはできる」。人間に不可能なことがなぜ可能になるか。その道を行くために大切なのは神のまなざしだ。神から見られ愛されている気づきが不可能なことを可能にする。立ち去った金持ちは自分の壁に閉じこもり、自分の行いに先行する神の愛情に気づくことができなかった。イエスの弟子は自分を失う恐れにとらわれるのではなく、自分が愛されている喜びに生きる。

 今日の福音書のイエスの言葉は理解しがたい。けれども、それぞれの時代にこのような言葉を現実の生活で生きる人たちがいる。目立つのは、富を利己主義的に集めないこと、富を分かち合うこと、そして人を受け入れること。ある教父は言う、節約のためだけに断食するならただのケチだが、分かち合うために断食するならキリスト者だ、と。今日の箇所についてキリスト者同士で分かち合いをしてみたい―現代で清貧を生きるにはどうしたらいいか。


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トピック

2018年

10月

21日

世界宣教の日

福者パオロ・マンナ
福者パオロ・マンナ

 毎年10月の最後から2番目の日曜日は世界宣教の日。今年は日本ではあまり知られていない二人の人物を紹介しましょう。

 今年の教皇メッセージの最後に名前が挙がっている福者パオロ・マンナは、ミラノ外国宣教会の司祭です。ビルマでの12年間の宣教で結核になって帰国した後、『レ・ミッシオーニ・カトリケ』誌の編集長となり『プロパガンダ・ミッシオナーリア』誌を創刊。その後、後に教皇庁立となる宣教師連合を設立しました。

尊者ポーリーヌ・マリー・ジャリコ
尊者ポーリーヌ・マリー・ジャリコ

 世界宣教の日の献金は福音宣教庁信仰弘布会に送られますが、その会を始めたのが尊者ポーリーヌ・マリー・ジャリコ(1799ー1862)。聖ヴィアトール会の創立者ルイ・ケルブの同時代人で、同じくリヨンの人。17歳の時母親が亡くなり終生処女(おとめ)の誓願を立てます。兄の一人がベトナムの宣教師だった彼女は、姉夫婦が経営する工場の女工たちといっしょに祈りと献金で宣教師を支える運動を始めます。たくさんの人たちがそれに加わって、教皇庁に属する「信仰広布会」になりました。宣教活動を報告する必要性も主張していました。

 二人とも聖フランシスコ・ザビエルのように有名ではありません。けれども、だからこそ、私たちにとって宣教の模範になりそうです。私たちも自分の周りでたとえ小さなことでも宣教のために何か始められますように。


2018年

10月

09日

世界一小さな教会の主任司祭

 スイスに本部があるベトレヘム外国宣教会のゲオルク・シュトルム神父様(1915−2006)。中国宣教から撤退した後、来日し、盛岡で日本語を学び、岩手県南部の大籠教会に赴任します。アルプスに生まれ育った神父様はそこで、酪農を通じて宣教しようとしますが、神父が労働をすべきではないと当時の司教が反対し、別の教会に転勤となります。そして、1959年、自ら志願して岩手県北部の二戸(にのへ)教会に赴任します。信徒は10名に満たない世界一小さな教会(推定)です。神父様は二戸の家を一軒一軒訪ね、キリスト教に関心がある人はいないかと聞いて回りますが、誰もおらず、がっかりしたと言います。

 失意の中でも祈り続ける神父様。聖務日課を唱える代わりに、ギターを片手に自分でメロディーをつけて歌います。二戸に移った翌年、オリジナルの聖歌集『バイブル・ソング』を出版。若い頃に隠修士に憧れトラピスト修道院に入ることさえ考えた神父様は教会の敷地で山羊を飼い、畑を借りて小麦や野菜を育てて自給自足の生活を送りながら、地元の植物画を制作したり、宮沢賢治の童話を知ったのをきっかけに童話を創作し、童話集『子山羊とフランシス』『幸せの種』を出版。もっとも宮澤賢治イーハトープ賞は辞退したそうです。

 工事で樹木が伐採された山を見たのがきっかけで、教会の庭で種から苗を育てて、木を植える活動を始めます。各地に2000本の苗木を植えて、岩手日報文化賞を受賞。御聖堂も神父様が木から彫った十字架像や聖母子像などが飾られました。

 神父様の帰天後、残念なことに、二戸教会は道路拡張工事のため取り壊され、もはや訪れることができません。しかし、私たち信者は、残されたさまざまな作品を通して神父様の霊性を知り、失意と孤独と貧しさの中でも祈り続け神から与えられた素質(タレント)を大きく育てることを神父様の生き方から学ぶことができます。たとえ信者が少なくても教会は教会なのです。

 神父様を紹介する黒澤勉著『木を植えた人・二戸のフランシスコ』(イー・ピックス)から神父様の言葉をいくつか引用しましょう。

 「農業は一番美しく、尊い仕事です」。

 「聖務日課を歌っているとき、私ははっきりイエズスに助けられていること、イエズスが自分の中に働いていることを意識します。信仰はペトロが言うように<冷静な酔い>であり、単に感情に支配されるのでなく、義務のように実行し続けるものです」。

 「スイスでは神父を頼んで植物を聖別します。…聖別を、プロテスタントは迷信だと言いました。しかしカトリックの信仰では、すべての自然の中に神の霊の働きを信じています」。

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 「神は決して人に強いることはなく、ただ提案するだけです。私たちは神の提案を受け入れその御旨を果たすべきです。それは多くの場合、小さく、つまらないように見えます。しかし、それはイエズスのもとに入って、大きなこととなります」。

 神父様のお母様はフランシスコ会の在俗会員で、神父様自身フランシスコを慕っていたことから、黒澤氏は神父様を二戸のフランシスコと呼んでいます。神父様の出身地スイスから、カトリックではありませんが、アルプスの少女ハイジや、晩年スイスに住んで庭仕事をしながら水彩画も製作したヘルマン・ヘッセも連想されます。いずれも日本人によく親しまれています。宣教師としての神父様の願いは、神父様が天に戻られたこれから叶えられるかもしれません。


今後の主な予定

10月10日(水)~

洛北ブロック黙想企画 祈りの集い

10月21日(日)

聖ヴィアトール祭

ミサ後、パーティもあります。

11月1日(木) 9:00~

諸聖人の祭日ミサ

11月2日(金) 7:00~

死者の日ミサ

11月18日(日) ミサ後

教会バザー

日時変更とお休み

事務室の在室時間は現在のところ以下の通りです。なるべくこの時間帯に来室・連絡下さい

 

月・火・水、金 10:00~12:00

 

*変更の可能性があるため、来室の際には電話(075―724―6623)で確認願います。

聖体顕示は金曜日18:30〜19:00となっています。

カトリック教会のニュース

当教会でいっしょにミサに与っていた霧島彬さんが助祭に叙階されたことが鹿児島教区報に載りました。霧島さん、おめでとうございます!これからも霧島さんのために祈りましょう。


お知らせ

教会を会場として行われるイベントの紹介

Since 14 Sep 2013